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Channel: コーヒーを挽きながら~岸本静江のひとり言~
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「リンコン・デ・サム」の宵

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11月末恵比寿駅近くのメキシカン・レストラン「エル・リンコン・デ・サム(el Rincón de Samº))に出かけた。「サムの角店」というのかな、地下1階の文字通り角店。入口に立っただけで、メキシコのとある地方の古い街角に立ったような気分。
 
ドアを開けて中に入れば店内の壁はメキシコの風物画や素焼きの壺が飾られ、天井からはメキシコの町々の街路を飾る色とりどりの「切り紙」(papeles picados)が万国旗のようにぶら下がっている。全体がもうお祭り、フィエスタ・ムードだ。
 
オーナーのサム・モレーノさん(日本人)と挨拶。サムさんはラテンミュージシャンで私達の友人、ナタリーさんのこれまた友人。10月に我がギャラリーに来て下さった折、夫の旧友の故松本宣雄氏とメキシコ在住時親交があったというので、すっかり意気投合、以来私達ともアミーゴスになった方だ。
 
その夜は月1回のサムさん率いるマリアッチ・フルバンド生演奏の日とあって開店直後というのに、もう常連さんが数組タコスなどつまみながら演奏開始を待っている。
 
ウチの息子も駆けつけ、またナタリーさんも加わり、私達のテーブルもにぎやかになる。
 
7時過ぎいよいよ「サムライ・マリアッチ」の登場だ。大編成。トランペット2人、ヴァイオリン3人(女性)、ギター2人にギタロン1人。にぎにぎしく、最初はel Mariachi Samurai ha llegado! (マリアッチ・サムライがやって来た!)。トランペットは高々と、ヴァイオリンは嫋々と、ギターは朗々、そしてギタロンは重々しく。そしてギター片手のサムは店外にまではみ出すようなボリュームでラティンの歌の喜びを、歌い上げる。

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                          (サムライ・マリアッチの登場だ)

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                    (聞きほれる)

サムの軽妙な語り口、常連客の拍手、掛け声、のうち約30分ほどで第1部終了。次々にお料理が運ばれてくる。懐かしい本場メキシコの味。いや、なかなか本場でも味わえない味付け。モレソース(プエブラ地方特有のチョコレート入りのソース。チキンにかける)が甘すぎる、とメキシコのレストランでさえ小うるさい注文をつけていた夫も大満足の味。トルテッリャ、タコス、それにテキーラのカクテル、マルガリータで乾杯すれば心は懐かしいメキシコの空に飛んでゆく。
 
第2部は9時頃から。曲目も変わり、ムード最高潮に達した頃飛び入りが入った。黒衣の日本女性で一見して貫禄十分。常連客なのだろう、飛び入りし慣れているとみえ、長い前奏曲の後の歌いだしのタイミングの良さ、息継ぎもたっぷり、余韻も嫋々。見事に歌い上げた。拍手鳴りやまず。きっとプロだ。

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                  (飛び入り歌手の熱演)

さらに踊りが加わった。サム夫人とマネージャー兼シェフのオマール君の男女二人組。マリアッチの本場グアダラハラで生まれたハリスコのダンス。たっぷりした円錐形のあでやかなスカートが翻る。それを引き立たせる黒い衣装のオマールと好一対。

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                 (巧みなスカートさばき!

ブラーボ! ブラーボ! 大歓声、拍手鳴りやまず。最後は何の芸もない私まで引っ張り出されて、事の成り行き上スペイン語で挨拶させられて…

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                    (なんで私まで…)

それもこれも万事成り行き次第のメキシコ流。(それとも成り行き任せを装った綿密なサム流おもてなし? ) おかげで久しぶりにメキシコのフィエスタを、メキシコのローカル・レストランの雰囲気を存分に味わった恵比寿の宵でした。
 
なお今月14日(月)はクリスマス特別コンサート、特別メニューとか。まだ予約の余地はあるのかな? お問い合わせその他はエル・リンコン・デ・サム(el Rincón de Sam)のホームページでご確認を!
     http://www.sambra.jp/



「槇38号」発刊

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 文学同人「槇の会」が年1回刊行の同人誌「槙」の38号が去る118日ようやく刊行した。

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 ようやくというのは毎年「槙」は夏8月頃発刊するのだが、今回は11月にずれ込んだからだ。それには色々な要因があった。
 
 まず「槙文学選集Ⅳ」の刊行があった。10年に1度「槙」に発表した作品から各自1作を選んで「選集」に掲載する。「Ⅳ」はその恒例に従えば本来は後2年後に刊行すべきはずであったが、同人の高齢化、病気、などにより、今回は早めよう、ということになり、6月突貫工事で刊行なったからだ。
 
 その編集最中の5月会長だった三好洋氏が急逝、残念だが三好氏の生前には間に合わなかった。その上昨夏に事務局担当の勝山さん、昨年から今年にかけて有力同人の乾浩氏や松葉瀬昭氏、そして今年に入って顧問で会創始者の遠山あき先生まで次々にご病気、ということになれば38号の8月発刊は到底無理だった。
 
 それでも年1回の刊行は守ろうと同人一同シャカリキに執筆・編集を急ぎ10月には印刷屋に原稿入稿、となったのだが、上梓は11月初旬となり、待ちかねて下さった遠山先生ご存命中にはこれもまた間に合わなかった。それだけが返すがえすも残念だったが、何事も早手回しに事を処理なさった先生の事、38号用玉稿は6月には編集担当の松葉瀬氏の元に届き、今号巻頭を飾ることができたのは、同人一同唯一の慰めとなった。

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 でその遺稿、「クオンター」は以前もお書きになったシベリア抑留日本兵のエピソード中の一遍。ウズベキスタン僻地の製糸工場に強制労働者として送られた久保田という兵士が、糸の巻き込み機に挟まれた現地人の女工を身を挺して救い、代わりに自分が命を失う、という話。「クオンター」は久保田という名前の現地風発音から、という。
亡くなるまで文章にみずみずしさと温かい心情が溢れていて、遠山文学の神髄を見る思いがする。

 同じく遺作となった三好さんの「狛江物語」。亡くなるのを予感してか、臨死体験のような文章だ。そこに登場する主人公の曽祖父の曽祖父が言う。「お前には遣り掛けて、是非とも完成させたいと自分自身が思っている仕事が残っているはずだ」と。その通り三好さんはまだまだやりたかった事があったはず。読んでいてその無念さが伝わってくる。
 
 松葉瀬昭作「宝冠阿弥陀」。鎌倉幕府の3代にわたる将軍に仕えた和田義盛とその妻、娘の波乱に満ちた生涯。錯綜する登場人物とその家系、前後する時代、千葉県と三浦半島、伊豆半島などの土地の政争に命を賭ける鎌倉武士の宿命、etc. 。歴史物を得意とする作者の独壇場だが、チト、錯綜過ぎで、なかなか筋が追いきれず(と思うのは私だけ? 不勉強ですみません。)
 
 これも歴史物では「槙」の双璧、乾浩さんの「於萬さま夜咄」。房総正木秘話と副題がある通り家康の側室として徳川ご三家の元となった紀州藩主徳川頼宣、水戸藩主徳川頼房を生んだ於萬の方の生涯。定説ではこの於萬の方は安房城主正木頼忠の娘、となっているが、乾説では実は母の再婚相手となっている蔭山氏広が実父、という。37号の続編だが、今号では物語の語り手が於萬さま自身となっているのが新しい視点。
 
 乾さんにはもう1つの作品が。それは毎号引き受けて下さる表紙画。今号は「森の朝」というタイトルの切り絵に彩色したもの。赤・緑・黄の3原色に縁取りと裸の木々の黒々とした太い線が画面を引き締めている。表紙題字の「文学同人誌 槇」は作家で「槇」顧問だった故恒松恭助氏の毎号変わらぬ懐かしい文字。
 
 歴史物から一転して谷チイ子作「妹よ」。作者得意の家族を巡る私小説。長年この作者の一族の系譜に慣れっこになっている読者にも、些細な言葉の行き違いから音信不通になってしまった妹を案じる姉の切々とした心情に改めて涙をそそられる。
 
 西知恵さんは今回2作の出品。長年高倉健ファンだった作者、高倉の訃報に接して哀悼の意に耐えがたくあらゆるマスコミに乗った故人の人柄、美学を読み漁り、視聴し尽くした末の「哀悼高倉健」。また創作では「優しいマリア」。一人の少女の成長の過程を大河小説風に家系、環境、境遇を丹念に描くことで追っていく。西さん、この作で大分自信がついたようだ。
 
 磯目健二さん「化学工場の四季」。これも一人の少年の成長物語。折しも時代も戦中の国民学校初等科から戦後の新制中学へ移行という教育改革真っ最中。これを体験した主人公健吉が中学を卒業、夜間の高等学校へ通いながら昼間は化学工場の給仕として働く。日本も同じような歩みで敗戦での武装解除から朝鮮半島動乱を経て警察予備隊から保安隊へと変貌してゆく。まさに健吉の思春期と日本の思春期が重なった時期だ。
 
 新人の小島茂さんの「似非な美食家」。ほぼ1年間の見学(?)を経ていよいよデビュー。それにふさわしく題材といい文体といい、これまでの「槇」になかった作品。表現方法にはいろいろ注文もあろうが、まずはデビューを果たしたことを寿ぎたい。おめでとう!
 
 忘れてならないのが短歌部門の牧野恭子さん。タイトル「愛車とともに」では大抵の読者がいわゆる自動車を想起すると思うのだろうが、牧野さんの愛車は「シルバーカー」(老人用手押し車)。15年愛用したクルマを老朽により買い替えた、というお目出度いご長寿の歌が並ぶ、
「思ひきや十数年を押し馴れしシルバーカーの二台目購ふと」
「あたらしき介助車頼りあと幾年踏みしめ行かむわが残る日を」
 牧野さん、これからも三台目、四台目のシルバーカーと共にお健やかに。
 
 トリは拙作「ここはジパング」第四章「マニラの日々」。ロドリゴが臨時総督として赴任したフィリピンで、ジパングの家康からの書簡やジパングからの使者などに接し夢にまで見たジパング渡航を現実のものとして企画・実行に移すまでを描いた。「挑戦せねば海は渡れぬ」、ロドリゴは難破覚悟で、いや難破を装っていよいよジパング目指しフィリピンを後にする…
 
 というわけで同人数が減った分、それぞれ力作を掲載した。来年の成長が楽しみだ。
 
巻末には三好さんの追悼文特集。逝去されて改めてその存在の偉大さを思った。さようなら、三好さん。そしてありがとうございました、遠山あき先生。お二人に合掌。




2016年明けましておめでとうございます!

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 皆さま明けましておめでとうございます。
 本年もどうかよろしくお願い申し上げます。
 
 一昨年の1111日に思わぬ交通事故で右足首骨折、昨年1年間は療養・リハビリの年でしたが、おかげさまで暮れの1222日主治医から「治療終了」のご託宣をいただきました。長いことご心配いただきありがとうございました。
 
 昨年後半には家族11名で奈良旅行を敢行したり、車の運転もできるなど、まだ跛行ながら日常生活にもほとんど支障なく、過ごしておりますのでご休心下さい。
 
 その勢いと「寄る年波」がこれ以上激しくならないうちに(?)本年も家族旅行、それも国内ばかりでなく国外へ、と夢を膨らませております。
 
 また昨年の抱負として自作を「電子書籍」にする、と広言してしまいましたが、実際には非常に読みづらいことが判明しましたので、(横書きはともかく、縦書きをパソコン画面で読むのは老眼では無理、文字を大きくすると頻繁に画面をスクロールしなければならず、わずらわしい)、今年はなんとかペーパー書籍にならないか、と目下模索中です。それには書き溜めた作品をいつでもスタンバイできるように再度推敲する作業も同時進行しなければなりません。
 
 事故で得た教訓は平凡ながら「今日やれることを明日に延ばすな」ということ。明日どころか、今日これからでも何が起こるかわからない世の中、思い立ったらすぐ着手する、そしてそれを継続する、それが今年のモットーです。
 
 さあ、そう宣言したからには三ガ日から遊んではいられません。Let‘s go!¡Vamos!

「いざ行かむ 雪見に ころぶところまで」     芭蕉


新春の浅草と「新春浅草歌舞伎」

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 まだ松の内の4日、浅草へ出かけた。銀座線浅草駅の階段を上がるとすぐ雷門。お正月とポカポカ陽気に浮かれて仲見世に入らないうちから人波でごった返している。車道と歩道の境にはずらりと名物の観光人力車。雷門脇の交番にも道を訊く外国人が殺到している。
和服の男女もお正月気分を大いに盛り上げている。

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 仲見世はいつもに増して人、人、人。ラッシュアワーの新宿駅並みの混雑。立ち止まることも追い抜くこともできない。ただ人に押され流されてゆく。はるか向こうに浅草寺の甍がそびえているがそこまでたった250mの距離なのに、たどり着くにはかなり時間がかかりそう。左右の店の屋根には正月らしいアーチがかかり、それには「新春浅草歌舞伎」の広告が何本もかかっている。




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 そうそう、こっちが今日の目的だ。急がないと3時からの夜の部に間に合わない。ご本堂の参拝は帰りにしよう。仲見世を途中から左に折れて浅草公会堂へ急ぐ。

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数年前の1月やはりここで市川猿之助(当時は亀治郎)、中村勘太郎・七之助兄弟を見た。その時の3人組は今や歌舞伎界の中軸、そして今回は次代の中軸となる若手達、尾上松也、坂東巳之助達がその若さ溢れる芸を世に問う場となっている。
 
3時開演の夜の部。幕開きの前に松也のお年玉(年始ご挨拶)。歌舞伎見物初体験という観客に易しい歌舞伎の見方や見得の際のタイミング良い掛け声の掛け方などユーモアを交えながらのミニ歌舞伎教室。なかなかツボを心得た心憎い演出だ。

  さて第1部は「毛抜き」。歌舞伎の奇想天外・突拍子の無さが存分に発揮された演し物で、髪の毛が逆立つという奇病を病む姫(中村鶴松)とその原因を見抜いた粂寺弾正(坂東巳之助)がお家騒動を目論む悪家老秦民部(中村隼人)をやっつける、という筋。天井裏に潜み、姫の鉄製櫛笄(くしこうがい)を磁石でひきつけ髪の毛を逆立てた忍びの賊が、見破られて天井から飛び降りた時、抱えていたその磁石なるものがナント丸い「方位磁石」というのも笑わせる。
 
 第2部は義経千本桜の内「川連法眼館の場」(かわづれほうげんやかた)、通称「四の切り」、または「狐忠信」。桓武天皇の御代、雨乞いの為に千年長寿の雌雄のキツネが殺され鼓にされたが、その鼓を義経の愛人静御前が愛用。義経は兄頼朝の勘気を被り東国へ落ち行く途中、静の身を腹心の家来佐藤忠信に託す。ところがそのキツネ夫婦の子キツネが父母を慕って静が鼓を打つ度に忠信の姿になって現出、実物の忠信と真偽のほどを試されることになった。その結果子ギツネの正体は見破られるが、義経はその孝心を愛でて子ギツネに源九郎と言う名を与え、鼓を返す、というもの。
 
忠信と子ギツネは松也の一人二役。キツネの柔軟で可憐な所作がたまらない。幼い頃から鍛え抜かれた松也の身体機能のすばらしさ。大人になってからの鍛錬ではとてもこうまで柔らかく、かつ激しい動きは不可能だろう。以前市川海老蔵の「高坏」を見たがその時も「高下駄を履いたタップダンス」と称される足技に驚嘆したが、これも同様幼児からの訓練の賜物だろう。
 
忘れてならないのが歌舞伎アクションを支える下座音楽。今回も浄瑠璃の竹本道太夫、泉太夫、三味線の鶴澤公彦、繁二、それに「附内」(つけうち)と呼ばれる柝(き)を打ち鳴らす係の渡邉さん、福島さん? これがない歌舞伎を想像すると、どんなにかこの方々の役割が重要なものかがわかる。オーケストラが無いオペラが想像できるだろうか。ウチに帰ってもまだ三味線の、浄瑠璃の、そして柝の音が耳の奥で鳴り響いている。
 
6時きっかりにお開き。クラシック・コンサートやミュージカルでは終演後に延々とアンコールやカーテンコールがあるが、歌舞伎にはこれが無いのが、実は助かる。田舎者は帰りの足が気にかかるのだ。
 
で、先ほど参拝を中止した観音様に改めて参拝。さしもの仲見世通りの人込みも半減している。反面、本堂や宝蔵院、五重塔などがライトアップされ、暗い夜空に華やかに浮かび上がっている。仲見世の店々もまばゆく灯りがつき、まだ歌舞伎の世界にいるようだ。

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観音様に去年の様々なご利益を感謝し(怪我からの全治、一族の奈良旅行成就、家族の健康息災、etc.etc.)、今年も同様の安寧を祈願する。(こんなに欲張る割にお賽銭が少なすぎ… すみません)
 
観光客の土産の定番、人形焼き、雷おこし、七味唐辛子を買って、まだまだ不夜城の雷門を後にする。
 
あゝ、良いお正月だった。ありがたい、ありがたい。

                  

                    










 














立春・雛飾り

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 立春の昨日、待ちかねた雛飾りをした。
 
例年立春の日には雛を飾り3月一杯そのまま、4月になると五月人形に交代5月一杯そのままにしている。
 
 
 去年は怪我の治療中で雛人形を取り出す気持ちの余裕も、それどころか車イス生活で人形を戸棚から取り出すのも難儀だったから、「お雛様が泣いてる」と思いながら雛人形も武者兜も箱に入ったままだった。
 
 といってもウチの雛飾りは簡単だ。み~んなお内裏様だけ。
 
 まずは昭和5年生まれの亡き長姉の初節句に祖父母が誂えた雛。いまだに崩壊寸前の「三越御誂」の桐箱に収まっている。私達が幼かった頃は立派な7段飾りで蒔絵の調度品や高砂のジジババ人形、チンを連れた姫君など沢山のお供がいたが今はお内裏様カップルだけ。しかも女雛様の扇も紛失。男雛様も太刀だけは帯びているが笏は無い。ただお二人のお顔は現代風丸顔パッチリ目でなく、昭和初期雛の引き目、細面が床しい。ギャラリーの床の間がいつもの御殿だ。

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 ただこのお二人にはこれも同時に誂えたらしい立雛を描いた掛け軸が唯一の贅沢として残っている。なんだか落剝した姫君、例えば源氏物語の「末摘花」が「親の唯一の肩身の調度品としてこの掛け軸を守っている」みたいで、おいたわしや、である。

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 長女の初節句に私達が買ったのは木目込み人形。当時生後8カ月だった娘は嬉しさのあまり人形をいじり回したものだから、人形の切り下げ髪は乱れ、鼻の頭は少々薄汚れている。彼女が結婚した時と孫娘が誕生した時持たせようとしたが、飾る場所がない、と断られ、いまだに我々が保管している。

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 この木目込み雛の箱には孫娘の1歳の誕生日に夫が書いた色紙が大切に保存してある。
  春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に出で立つ 乙女 (大友家持)
 孫娘は誕生予定日が3月3日だったので、誕生前から桃子という名が予想されていた。この娘のパパはもっとキラキラ名前にしたかったのかも知れないけれど、ババたる私が強硬に主張したのだ。桃の節句に生まれる娘、これ以上良き名があろうか。(ただ実際は3月3日でなく2月に誕生してしまったが。)
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 今年この1対は息子が保育所時代作成した紙粘土ビナと同居。賑やかだ。
 
 次は芝原人形作家千葉惣次さん作の土人形のお内裏様1対。次女用の雛だ。これも住まいのスペースと彼女の子供達が男の子ばかりのため、我が家常駐だ。今年はギャラリーの飾り棚に鎮座させた。

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 この芝原人形雛とは別に同じ作家の人形群も例年通り玄関の飾り棚という定位置に並ぶ。彼らは主として五月人形用だから5月までこのままだ。

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 ここには妹の作になる木目込み人形も1対。おとなしそうな、一見寂しそうな顔立ちは唇に紅色が不足しているせいかしら。その代わり利発そうなのは妹の末娘に似ている。
 
 今年はいつも雛人形を飾る居間の飾り棚は異色の顔ぶれにした。メキシコのオルメカ石神像、ペルーの土器製酒器神像、江戸時代の木製女神像、メキシコはムヘーレス島の土器像、それにレプリカのネフェルティティ像とマヤの貴族像。(おっと、画面に入りきれなかった!)

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 それぞれ歴史や入手由来があるが、それを脇に置いても、これらがずらりと並ぶと迫力満点。威圧感すら漂う。
 
 さてさて、早々並べたお雛様達、神様達。今年は、この春は、どんな幸運をもたらして下さるやら。どんな悪運を追い払って下さるやら。よろしくお願い申し上げます。


上野で寄席を楽しんだ

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うるう年の今年2月29日、折角だから普段出来ないことをしよう、と上野は寄席の老舗「鈴本演芸場」に姉妹3人と娘の4人で行ってきた。

 

「花の上野」にはちょっと早く花見客は未だ出ていなかったが陽気は爛漫、昨夜来の「夜来風雨聲」も鎮まり、上野は平日というのに結構な人出。

 

広小路を散策して「上野凮月堂」で昼食。この老舗菓子店には思い入れがある。銀座の「旧米津凮月堂」(現東京凮月堂 創業宝暦3年1753年)には祖父が番頭を務めていたというが、銀座店と上野店がそれぞれ別の道を歩むことになったのはもう祖父の時代からだったらしい。わしは「米津」だ、と祖父は言っていた。子孫の我々はそんなことはお構いなし、銀座や上野に出ればこだわりなくゴーフルを買ったりコーヒー休憩したりしている。

 

いよいよ「鈴本演芸場」昼の部。12:3016:30。「鈴本」は初めて、というより寄席は昔叔父夫婦に連れられて人形町の「末広亭」に数回行ったことがある程度。そこでテレビではなかなかお目にかかれない「講談」だの「紙切り」、「声色」などいわゆる寄席芸の面白さを知り、昔懐かしさで今回姉と妹、それに娘に声をかけた。

 

寄席は時間内なら入席自由、退席自由、全席椅子席の自由席。フラッと来てフラッと出てゆける、という気楽さ。しかも大人2,800円という手軽なお値段。


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昼の部は落語9組、漫才2組、マジック1組、パントマイム1組、音楽1組、のプログラム。落語は出囃子も座布団も、マクラを言いながら羽織を脱ぐ、という所作も昔からの方式、漫才もボケと突っ込みの上方流、と伝統的流儀(?)だが、パントマイムではサッカーの実況中継、ピアニカとリコーダーを器用にこなす若い女性(?)「のだゆき」のニュータイプの音楽演目など新しい風も取り入れている。


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プログラムが進むにつれて出演者の芸もうまくなって行く。85歳の川柳川柳が春の高校野球のテーマ音楽を朗々たる歌声と皮肉たっぷりの語りで会場を笑わせる。そうかと思うとトリの三遊亭金時はしんみりとした人情噺で聞く者の涙を誘う。間の取り方といい、登場人物の演じ分けといい、さすが真打だ。


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たっぷり3時間江戸の情緒を楽しみ、打ち出し太鼓のテレツクテレツクに送り出されて広小路中央道路に出れば、春永の2月最終日、まだ陽は明るく、上野の繁華街はこれからが本番、という風情だった。

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広島・宮島・倉敷・瀬戸内海紀行 その1

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 お彼岸の連休を利用して、子供達・孫達と広島、宮島、しまなみ海道、倉敷の旅を満喫してきた。
 
 まず広島。午後1時着。広島に来たら名物お好み焼きを食べなきゃ、と駅ビルの「麗ちゃん」。ウイークデーの1時半過ぎというのに客が狭い店内に入りきらず、行列。やっと順番が来て、ニューヨークからこの店目指してやって来たというヤンキー青年3人組と相席。ギュウギュウに具の詰まった「生ガキ入り」や「ロイヤルスペシャル」をハフハフ言いながら食べる。

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(人気のお好み焼き屋「麗ちゃん」店内)
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        (行列して待ってた甲斐あるお好み焼き) 

 外に出たら激しい冷たい雨。レンタカーで平和公園を目指す。実を言うと原爆資料館や原爆ドーム見学は気持ちが重たくて避けたかった。学生時代原水爆禁止世界大会で通訳の仕事をし、東京、広島、長崎とスペイン語系各国代表について歩いた時のことを生々しく思い出したからだ。しかし、この機会に孫達には見せなければ。
 
 まず原爆ドーム。灰色の空の下、元安川の畔に屹立するドームの威容に思わず粛然と襟を正す。骨組だけになった3階建ての旧広島県物産陳列館。往時はモダンで大勢の人々が出入りしていたことだろう。それが19458月6日ほぼ頭上に原爆の投下を受け一瞬で崩壊、そのまま時間が凍り付いた。散乱した瓦礫、曲がったまま垂れ下がった鉄骨。被爆70年後の現在そのままでは現状を維持できないため、目下何度目かの保存修理が行われている。

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               (雨空に屹立する原爆ドーム)
 小2の孫にこれは何?と訊くと、「原爆が落ちた場所でしょ。その後黒い雨が降ったんだよね」と言う。近頃の小学生は何でも知ってる。そして「これを描きたい」と言うので黒い雨ではないが、冷たい雨の中ベンチに腰掛けスケッチ開始。大勢の見学者達が通るが写生中のチビッ子にはほとんど誰も気づかず。
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               (原爆ドームを写生するチビッ子)
 写生にかなり時間を費やし、雨足も強く、日も暮れかかってきたので平和公園、資料館、広島城(戦国大名の福島正則築城、ただしこれも原爆でやられて復元したもの)は車中から見学、一路今夜の宿、宮島の安芸グランドホテルへ。連休前日で道路大渋滞。
  
 厳島が対岸正面に見える絶景のホテルでの夕食後、夜の宮島大鳥居見物クルージング。満潮近い満々たる海水に浮かぶライトアップされた朱塗りの大鳥居は夢のよう。

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          (前夜と違って根元まであらわになった大鳥居)
 翌日はフェリーでいよいよ厳島へ上陸。昨夜雨に打たれていた大鳥居が明るく迎えてくれる。宮島桟橋を出るとすぐ厳島神社への参道。海沿い、表参道、町家通り、と3本の道が厳島神社へ続いている。各道は土産物店や趣向を凝らしたカフェ、雑貨店が軒を連ね、世界一の大杓子まで展示。1軒ずつ覗き、焼きガキの屋台にひっかかっていると、なかなか本殿に辿りつけない。おまけに奈良ほどではないが、ここにも沢山の鹿が自由に歩き回っていて、観光客にエサをねだる。でもここでは鹿センベイは売ってないしなぁ、と思っていたら、なんと私のダウンのポケットに首を突っ込んでパンフレットをムシャムシャ。危うく帰りのフェリーチケットまで食われるところだった。
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(表参道商店街)
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(目の前で焼いてくれるカキに舌鼓)
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(この鹿にポケット内を探られた)
 昨日海中深く潜っていた大鳥居の足元がほとんどあらわになっている。瀬戸内海ってこんなに潮の干満が大きいんだ。孫達大喜びで浜を走り鳥居の根本に近づく。
 
いよいよ本殿。推古元年《593年》創建。平清盛以下平家一門の尊宗を受けて栄えた。緑の弥山(みさん)を背に回廊の朱塗りの欄干が海に映えてさながら竜宮城。さすが日本三景の一だ。遠景に五重塔が見える。ハテ神社なのに、と不思議。そう言えば当時の技術の粋を凝らした国宝「平家納経」も仏教の経文だ。神仏習合も極まれり、の感。
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(世界遺産厳島神社本殿入口)
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           (厳島神社本殿よりの全景)
 昼食は名物アナゴ丼。堪能して今度は弥山登山に挑戦。因みに弥山とは須弥山(しゅみせん)の略という。厳島神社裏手の坂を上り、ロープウエー搭乗口、紅葉谷駅まで無料バス3分。バスはかなりきつい曲がりくねった勾配を上る。ロープウエーも2段階。原始林に覆われた峰々谷々をまたぎ、眼下に絶景の瀬戸内海を見下ろしながらまずは榧谷駅まで10分。更に別のロープウエーに乗り換えて終点獅子岩駅まで5分。そこから海抜535mの山頂展望台を目指す。が、途中の上下勾配のきつさにまず私が脱落、最も登頂を希望していた夫も断念、二人で弥山本堂(弘法大師空海修行の場所)と霊火堂(同大師が修行時に灯した火が1200年以上灯し続けられている。堂内ススで真っ黒)の立つ台地で休憩。ここからの絶景も素晴らしかったので山頂まで行かずとも満足。その間に子供達、孫達は軽々と山頂制覇。若いって…

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(ロープウエー)
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                (獅子岩から瀬戸内海を臨む)
 1日中宮島を堪能して再びロープウエー、バス、フェリーを乗り継ぎ宮島口へ戻り、名物もみじ饅頭を頬張りつつ一路高速道を2時間、今夜の宿、福山市沼隈の海岸べりに立つ「あぶと旅館」へ。向かいの田島と百島が手に取るよう。ここは建物こそ昭和40年代の旅館様式(? 共同トイレや共同洗面台、大浴場脇に卓球台など)だが、割烹旅館として有名とか。夕食はその名にし負う海の幸のてんこ盛り。ちぬ(黒鯛)の活き作りは壮観。「あぶと」とは阿伏兎と書き、兎が伏せているような地形からその名がついた由。日中の登山と長ドライブ、それに豪華な夕食、で満腹。熟睡。

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                    (ちぬの活け造り)
 旅3日目は鞆の浦を中心にしたクルージング。9時半旅館専用桟橋から出発。船長兼ガイド氏の懇切丁寧な説明で田島を皮切りに鞆の浦、仙酔島(あまりの絶景に仙人でも酔うという)、弁天島(命をかけて海底から名刀を拾い上げた若者を祀った)、笠岡諸島など次々に大小様々な形態の島々が船の左右に、前後に、現れては消えてゆく。阿伏兎観音は海上に突き出した岩山に立つ朱塗りの観音堂で海から見上げると天空の楼閣。昔江戸に上る朝鮮通信使一行が汐待ちをした「對潮楼」も鞆の浦端の絶壁上に。この鞆の浦、交通渋滞を避けるため湾横断架橋の話があったが、景観派の反対で立ち消えになった由。そう、便利を取るか景観を取るか、難題だが、観光客には景観保全してもらいたい。私にしても、これ、これ、この景観が見たくてはるばるやって来たのだ。400年前、ドン・ロドリゴが、ウイリアム・アダムスが、堺と豊後の臼杵を往還した航路。折しも帆船が目前を通過。(残念ながら、帆は畳んでいた)。1時間のクルージングに満足。


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(正面が弁天島)
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(對潮楼
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(阿伏兎観音堂)



 広島、宮島、瀬戸内海クルージング、とこれだけでも満腹の旅、でもさらに眼福・口福の旅は続いた。   (次回に続く)


広島・宮島・倉敷・瀬戸内海紀行 その2

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 旅3日目、鞆の浦周辺の瀬戸内海クルーズを終え、尾道に戻り「しまなみ海道」。向島(むかいしま)、因島(いんのしま)、生口島(いくちじま、ここまでが広島県)、大三島(ここからはもう愛媛県)、伯方島(はかたじま)、大島、とまるで因幡の白兎みたいに島伝いにぴょんぴょん渡っていくと、いつの間にやら四国の今治だという。そうか、尾道が大阪から九州豊後辺りまでの瀬戸内海、山陽地域の真ん中辺だというが、その真ん中で本州と四国をこれらの島々が結んでいるわけか…


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           (しまなみ海道)


 新尾道大橋を渡り向島をあっと言う間に通過、因島大橋から因島へ。咲き初めた桜、満開の菜の花。たわわな柑橘類。豊かな漁場。瀬戸内海は本当に恵まれた地域だ。お彼岸のうららかな上天気に瀬戸内の海は明るいブルーと白に輝き、天に延びる銀色の橋桁、それを吊る斜線の幾何学文様が風光と人工美の調和の極致。各橋には自転車専用道路も完備しているので、息子達が大きくなったら一緒にここを走ろう、と大学時代サイクリング部員だった次女、大喜び。


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                (大三島にかかる多々羅大橋)

 あちこちの島のPAで休憩したり、風光を愛でたりして生口橋→生口島→多々羅大橋を渡ると大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)のある大三島へ。日本全国の山祇神社の総本社。山の神、海の神、戦の神を祀り、全国の武将からの尊崇を集めた、と聞くと大神殿を想像するが、この神社は素朴な佇まい。本殿の屋根は檜皮葺き、切妻造り。縄文時代の香りすらする。境内に鎮座する樹齢3千年、2,600年の両楠が神社の古さを語っている。面白かったのは参拝者が誰言うともなく、横並び3人の縦列になり、しずしずと拝殿に近づくと、2礼2拍の神道式拝礼をしていること。我々も前へ倣え! この神社は新造船のお祓いもするとのことで、折しも広島から2,200万円かけて新造したというクルーズ船の船主が航海安全祈願のためマーレ・グラント・大三島の桟橋に到着したところだった。

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(大山祇神社入口)
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(境内の樹齢2,600年の楠)
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                (本殿前でみんな整列!)

 
 この島付近一帯の島々は海賊の跋扈した海域で、特に能島村上水軍は伯方島と大島の間に点在する小島群を根拠地に付近を航行する商船の破壊、略奪で有名だ。信長が本願寺門徒を攻めた時村上水軍は毛利家からの兵糧を本願寺側に運び込び、それがきっかけで信長は鉄甲船を建造させたという。

 伯方島(製塩で有名)、大島、そして愛媛県今治を見残して回り右、夕陽に背を押されつつ高速道を東に再び尾道経由で一路倉敷へ。


 
 夕方いよいよ今回の旅の最終目的地、倉敷に到着。それにしても宮島から倉敷までよく走ってくれたねぇ、マツダのVoxy君、いや運転の息子よ。お蔭でハラハラすることもなく道中満喫しながら山陽道を駆け抜けられました。

 宿は倉敷アイビースクエア。江戸時代の代官所の跡地が「倉敷紡績工場」となり、戦後はその倉庫となっていたのを昭和48年再興、ホテルを中心に4棟矩形の赤レンガの建物が倉紡記念館やアイビー学館、倉敷名物ジーンズ・ショップなど複合観光施設となっている。アイビーの由来となった蔦が建物表面を覆っているが、残念ながらこの季節、幹や枝だけが寂しく壁を這っているのみだった。

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                 (アイビースクエア中庭)

 
 ホテル隣接の美観地区に繰り出す。ライトアップされた通りや橋はまるでお祭りの宵宮のように観光客がぞろぞろ。ほぼ90度に折れ曲がった倉敷川の両サイドやそれに並行する2筋道は大原美術館始め歴史建造物と白壁の土蔵、びっくり箱の蓋を開けたような珍しい店々が軒を並べている。宮島の参道より店のバラエティが豊富でどの店に入っても飽きない。古民家レストランでビーフシチューにありつく。


 アイビースクエアホテルは洗練されたヨーロッパスタイルだが、日本人にとってうれしい大浴場がついている。朝風呂、バイキングの朝食後再び美観地区へ繰り出す。通りはまだ10時前だというのに大勢の観光客でにぎわっている。川には幾艘もの観光川舟、法被姿の車夫が曳く人力車、そして「鬼祭り」とて鬼の扮装をした大人や子供が白壁の土蔵群をバックに練り歩いている。

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(川舟)

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                     (鬼祭り)


我々の目当ては大原美術館。ただ普段の心がけが悪かったらしく、エル・グレコの「受胎告知」やルノワールの「泉による女」などここの目玉収蔵品150点が東京の国立新美術館に出張中。でもこの倉敷の、いや日本を代表するこの美術館の館蔵品は150点位貸し出してもビクともしないし、それに美術館のたたずまいや辺りに漂うアカデミックな雰囲気というものは貸し出せないのだから、一見の価値ありだ。

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 西洋美術ではルソーの「パリ近郊の眺め、バニュー村」、モネ「積みわら」、それにピカソ、ルオー、彫刻ではブールデルやジャコメッティ、東洋館では北魏の一光三尊仏像、分館のエントランスに展示されている奈良時代の「過去現在因果経」、日本人近代画家の作品、梅原隆三郎や岸田劉生、小出楢重(独特なヌメッとした裸婦像とそれとは対照的な自由奔放な屏風絵)、どれもこれも見ごたえ十分。

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(北魏 「一光三尊仏像」)

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                  (梅原龍三郎 「裸婦」)

現在観光客がわんさと押しかけるアイビースクエアも美観地区もこの美術館が核となっての繁栄だ。勿論その美術館を築いた倉敷紡績(クラボウ)という会社のバックアップあってのものだけれど、財力があるだけでは美術館を作ったり、町の景観を整えたり、社会貢献をしたりすることはできない。創業者、大原孫三郎やその後継者、大原總一郎の見識や理念がなければ永く継続し発展させることはできない。そして孫三郎に委託され名品収集に奔走した児島虎次郎の貢献も忘れることができない。


そんなことを改めて感じながら美観地区を再び歩く。川にかかる今橋を舞台に音楽祭をやっていて、小中高生によるコンサートが開催されていた。また「えびす通り商店街」の店先では幼稚園児から小中生徒の絵画作品を展示。大原美術館の、大原一族の芸術理念が見事に生かされているのだ。

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             (音楽祭 クラシック! さすがクラシキ!?)

まだまだ旅を楽しみたかったが、連休も最終日。学校も仕事も年度末だ。倉敷駅へ急ぐ。道すがら食い意地が張って今川焼屋の行列についつい並び、電車が1分半遅れてくれなかったら生まれて初めて乗る新幹線グリーン車に危うく乗り遅れるところだった。日頃から何がその場で最重要かをすばやく的確に判断しなければ、チャンスもお金も時間も、ひいては人生も誤ったり、まかり間違えば失うことにもなりかねない。1個75円の今川焼が教えてくれた今回の旅の教訓でした。


旅は1度味わうと、アルコールやタバコと同じ(!?)、病みつきになる。また行こうぜ、次の旅は今回参加できなかったメンバーも誘って、と早くも次の計画で盛り上がった車中でした。




講演「遠山あき先生を偲ぶ」

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 4月7日(木)10:0011:30市原市牛久の南総公民館で上記のタイトルで講演した。
 
 講演を引き受けてみると、先生との色々な場面のエピソードが目白押しに脳裏に浮かんで、さて、どこから、どうやって、受講生の前でしゃべってよいやらわからなくなった。
 
 ただ、脈絡のないエピソードを次々としゃべるだけでは私が引き受けた甲斐がない。先生は色々な分野で活動しておられたから、私よりもっと先生とのお付き合いが長く、もっともっと色々なエピソードをお持ちの方が沢山おられるはずだ。
 
「はまゆうの会」では女性の地位向上のために活動する女性達のグループをたばね、「めだか塾」では郷土の歴史や埋もれた文化財に光を当てる、農業分野での諸提言、紫綬褒章を受章するほど長年民生委員として社会貢献をしておられた。その他様々な分野で常にリーダーだった。
 
 そういう私の知らない活動について私がしゃべることはできない。迷った末、「そうだ、私が皆さんに伝えられることは、作家『遠山あき』の、生涯追及して止まなかった文学の経緯なのではないか、ということに思い至った。
 
 様々な分野での先生の活動の原点、そしてそれがあったればこそ他の分野に領域を広げて行けた原点、そして98歳の最後まで心血を注いでおられたのは、文筆活動だった。
 
 半世紀に及ぶ先生の文筆活動。50歳から、という作家としては遅いスタート。それまでの50年の半生(都会でのエリートとしての恵まれた境遇…教員生活、結婚、近隣に住む実家の助けを借りながら3児の母となっても夫婦共々教職を継続…から戦争を契機に一転、農村への疎開、時代と因習に縛られた夫の実家での長男の嫁としての苦難、戦後の農婦としての農作業との格闘)、その経験が、先生を「文章によって自分を解放させる」道に突進させたのだ。
 
 そういう観点から講演の主題を決め、改めて先生の著作を読み漁った。ここ、と思うところは抜粋して書き写した。それによって先生の作品の変遷、進化が見えてきた。
 
初期の文章は「苦難のはけ口、涙の告発」だった。千葉日報社主催の文学賞を獲得した「雪あかり」や同佳作の「旅立ちの朝」が代表だ。ここには農家の長男の嫁の苦難が縷々つづられ、読んでいくと息苦しくなる。読み続けるのが辛くなる。
 
一読すると遠山あきという個人が婚家の、舅姑小姑の悪口、愚痴を並べているように見える。実際それが世に出た後、身内から「ウチの恥を世間に知らしめた」と随分非難されたそうだ。が世の女性達は、喝采を送った。これは遠山あき個人の恨みつらみではなく、読者である自分達のことを書いてくれたのだ、と涙して読み、涙の谷から立ち上がる勇気を得たのだ。


 しかし先生の筆は農村の女性達の苦難を描くだけでは終わらなかった。女性達の苦難の元となった農村の因習、戦争や戦後の目まぐるしい時代の変遷こそが、矢面に立つ男達を追い詰め、彼らのうっぷんが一番か弱い女達に暴力となって吐き出されていったのだ、という方向に進んでゆく。日本農民文学賞を受賞した「鷺谷」はまさにその発露だ。
 
その過程から「私憤」がまさに「公憤」となり全国の人々からの共感を得たのがNHKのラジオドラマとなった「頬打つ風」(原題「山村物語」)だ。全国から反響の便りが届いたという。
 
そのかたわら人一倍好奇心の強かった先生の目は自分を取り巻く環境に目を向けてゆく。辛い農作業の傍ら自分を慰め励ましてくれた養老川、東京湾岸の五井と内陸を結ぶ小湊鉄道、それらにはどんな歴史があり、その周辺の人々はどんな生活を営んできたのだろう。その疑問をスタート点に、丹念に歴史や地理、土地にまつわる伝説などを調査をし、それらを縦糸に、そこに生きる人々の生活を横糸に、詩情豊かな感性で織り上げていく。それが遠山文学の真髄ではないか。その事を私は話そう、それが私の役割だ。
 
当日は土砂降りの雨にも関わらず120人もの人々が詰めかけて下さった。先生のお身内も4人(次女のノリコさん、孫のカズミさん、ヒロミさん、ユウコさん)、私の同人仲間の乾浩さん、佐藤さん…。その他の友人達、知人達… なんとも面映ゆい。
 
まず市から拝借した15分間のDVD「遠山あき、土に生きる」。88歳当時の先生の生き生きとした日常生活が、力強い声音が、画面から会場いっぱいにあふれだす。日頃から「地元」ということで、直接先生の講演を聞いたり、タウン紙を通じて文章を読んだり、またお宅にお伺いした、という方々が多く、この映像によってありし日の先生の謦咳に改めて接した思いをみなさんと共有することができた。

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映像とその後の1分間の黙祷。これで会場が遠山ムードで満たされ、またこれによって私も、先生が傍らについて下さっているのを感じ、講演するという緊張が解けて勇気百倍となった。
 
その後は流れにまかせ、事前に作成したレジュメ通り、先生の生い立ち、先生の思想の変遷を辿りながら作品からの抜粋を時系列的に皆さんに紹介した。
 
90分はあっという間に過ぎて、結びとなった。先生のお宅をつい先週お訪ねし、ノリコさんから先生の原点である養老川畔の遠山家の畑に連れて行っていただいたことを話した。
 
お宅から300メートルはあろうか、左手に養老川のせせらぎ、右手はこんもりした高台。
ああ、この道を姉さん被りをし籠を背負った先生が往復されたんだ、ある時は誰にも言えない涙をのみ込みながら、ある時は遠い幸せだった日々を思い返しながら、鶯の声に聞きほれ、流れを泳ぐ鯉に驚きながら… 

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私は「流紋」改定版「小湊鉄道のあけぼの」の後書きを読み上げた。
「養老川上流の山村で生まれた私の中には、いつも川の瀬音が伏流となってせせらぎ続けていた。その川の畔を離れてから三十年、縁あって私はまた養老川の畔に住みつくことになった。朝に夕に流れの音を聞きながら田畑の仕事に精を出す。悲しいとき、苦しい時、水辺に降りて流れを見つめる。ふとこぼした涙を水は秘かに飲み込んでくれた。(中略)川は私の流れいく人生と共にあった。(中略)私は川になりたい。川になってその畔に生きた人たちの生きた足跡を辿ってみたい…」      
 
読んでいくうちに実際先生の声音で読んでいるような、私が読んでいるのではなくて、先生ご自身が読んでくださっているような気がした。我ながら自分の言っていることが、自分の頭からひねり出した言葉ではなく、まるで先生に言わせてもらっている、先生の魂が乗り移った、という感じで私はしゃべった。そんな経験は初めてだった。
 
「そしてそんな先生を偲びながらその道を歩いていると、耳元で『岸本さん、岸本さん』と懐かしい先生の声が聞こえました。
『私ね、いま極楽にいるの。極楽ってねぇ、遠い所じゃないの。今あなたが眺めていらっしゃるこの場所が、この養老川の畔が極楽ってことが、私、ここに来てみてわかったのよ。そして、以前慣れ親しんだこの辺りにもまだまだ珍しいもの、新しいものが一杯ある、それがわかったの。これが私の最初の『極楽探訪録』よ』
 
「そうか、先生は遠い所に行ってしまわれたんじゃないんだ、この養老川の畔に、故郷に、田渕のお宅の周りに、そうして、私の隣に、相変わらず旺盛な好奇心で、今度はアチラ側からコチラを覗き込んでおられるんじゃないでしょうか」
 
 我に返ると、会場のあちこちからすすり泣きの声が聞こえた。会場全体に先生の実在(というか降臨)が伝わったのだ。
 
 こうして万雷の拍手をいただいて私の「遠山あき先生を偲ぶ」講演は終わった。


ギャラリー鶴舞窯第2回「井上克展」開幕迫る

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 お待たせしました! いよいよ5月1日(日)よりオープンです。

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 7年ぶりの井上克作品展示。思えば第1回の井上克展で我がギャラリー鶴舞窯は本格的にオープン。あの時本当に大勢の方々においで頂き、しかも大好評。お蔭でその後の春秋年2回のギャラリー活動に弾みがついたのでした。
 
「次の井上展はいつ?」の声しきりでしたが、その間に次々と別の作家が登場、次回こそ、次回こそ、と思っているうちにあっと言う間に7年が経過してしまった、というわけ。
 
 その7年間でギャラリーの内装も随分替えた。床の板張り、壁、床の間、襖、飾り棚、照明、畳、絨毯、家具… そして何よりお客様の数と質、両方のアップ度。7年という時間の重みを実感させてくれる。
 
 そして漸くファンの皆様のご待望に応え、満を持してお送りする第2回井上克展。常に全力で対象に向き合う克先生の真摯な創作態度は、まさに先生の大好きな大相撲の名力士たちの命懸けのぶつかり合いそのもの。小錦対舞の海。大乃国対寺尾、そして満員の本場所会場全景…こんな大相撲絵、北斎画以外見たことない。しかもこっちは油彩画だ。

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(大相撲…塩)

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                    (大相撲がっぷり四つ)

 テーマが「相撲」、しかも力強い。男性しかこんな絵は描けないはず、という先入観があるらしい。これを描いた画家が実はたおやかな女性で、と言うと大概の方はびっくりする。
 
 前回は展覧会のタイトルを「鶴舞を謳う」としたように、先生のお宅周辺の鶴舞風景や愛犬、愛猫の作品を多く出品して頂いたが、今回も40点中8点の「大相撲」作品以外は先生周辺の風物が多い。それも、「猫とじゃんけん」とか犬の母子を描いた「家族」とか、先生の、人間も動物も同じ家族、という万物へ寄せる愛情の発露が結晶した作品が大部分だ。

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          (猫とじゃんけん)

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(家族)

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                  (チューリップ)

 今回は新機軸として大理石のモザイク画と肉筆の年賀状を出していただいた。
大理石のモザイク画は「チューリップと犬」、「夕陽と猫」など天然の大理石片をモザイク状に張り合わせた5作品。大理石ってこんなにもいろんな色のヴァリエーションがあるんだ、と改めて感心。額縁も先生自身の作になる木彫だ。
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             (大理石のモザイク画 犬二匹)

 年賀状はその年の干支を1枚1枚心をこめて描いた肉筆水彩画だ。今回は子(ね)から亥(い)まで3周り(36年間)36種類の作品集から12枚を厳選、額装した。自分の干支にはどんな絵が、という観点から鑑賞するのも一興だろう。
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(ウサギ)
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                                     (今年の干支のサル)

 南市原は目下大ブレーク中。桜や菜の花は見頃を過ぎたけれど養老川沿いは今、緑一色。市原市主催の「アートいちはら2016春」(5月3日~8日)も開催になるし、小湊鉄道のトロッコ列車や沿線の各駅とその周辺も展覧会やイベント目白押し。
 
我がギャラリーも新緑やツツジ、シャクナゲ、紫陽花と各種花々を取り揃え、ご来館をお待ちしております。

花のパリへ少年使節~井上克展余話

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「私のご先祖にこんな人がいるのよ」
 目下我がギャラリーで開催中の「第二回井上克展」の作家井上克先生が少々誇らし気に持って来られたのは古色蒼然(!?)とした2冊の本。「チョンマゲ海を行く」(1967年高橋邦太郎著人物往来社)と「花のパリへ少年使節」(1979年同高橋邦太郎著三修社)。それぞれ副題が「百年前の万国博」と「慶応三年パリ万国博奮闘記」。

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 早速ページを開く。ナニナニ、幕末期1867年日本からパリ万博に代表が出かけていた?  
 まだ日本にはフランス語のExposition Universelleの訳語どころか「万博」という概念すらなくて、当時の駐日フランス公使レオン・ロッシュの説明からなんとか「博覧会」の言葉をひねり出した、という、そんな時代だ。
 
 ナポレオン3世が提唱したこの第2回万博、招待国はイギリス、プロシャ、ベルギー、ドイツ連邦、オーストリア、ロシア、アメリカ合衆国、イタリア、オランダ、スイス等々、アジアからは中国、シャム、それに日本、の三カ国。もっとも、日本からは幕府代表の他に薩摩、佐賀からも2藩が別個に代表及び地方の特産物を展示していた。
 
この2冊(「チョンマゲ…」は後に「花のパリ」と改題しているので中身はほとんど同じ)には万博への日本政府招聘事情から始まり、一行の旅中や万博の開会式、会期中の様子、欧州滞在生活が、鎖国時代の日本人にとって目をむくような西欧世界の神羅万象が、こと細かく活写されていて、単に歴史資料を紐解く、というだけでなく、時代小説を読むようなワクワク感も味わえる。
 
 幕府代表として15代将軍徳川慶喜から指名されたのが、弟の昭武。水戸藩主斉昭の18子でその時わずか14歳の少年だった。14歳の少年公子が日本国を代表して国際行事に参加するには幕閣からそれ相応の補佐役が随行しなければならない。

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(フリー百科事典ウィキペディア「徳川昭武」の項より)
 
「その随行団の団長が私のひいおじいさまの向山黄村だったのよ」と克先生。
 
 向山隼人正黄村。旗本。幕府の外国奉行目付を経て慶応二年十月フランス全権公使を命じられ、徳川昭武のパリ万博出席の際は随行団長となった。ただその際、幕府が薩摩藩と佐賀藩と同列に扱われた点、及びフランスとの経済・軍事援助交渉に失敗した点の責任を問われ、また大政奉還の時期とも重なり、随行団長としての責務を完遂しないまま慶応三年八月栗本鋤雲と交代させられた。帰国後府中に隠棲した徳川家達に随従。その際「府中」という地名を「静岡」と改名したり、静岡学問所頭取として後進の指導に励んだという。
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(静岡県or静岡市の広報紙?より)
 
 克先生はその黄村の母方の曾孫、と。またその時黄村の部下として随行した山高石見守とも血縁関係があり、その子孫の方も来訪された。世が世ならば、庶民中の庶民、町人中の町人の私など、ヘへ~っ、と地べたに這いつくばって顔も上げられない位ご身分の高い方々だ。もっとも克先生はそんな高貴なお家柄出身とは到底思えない気さくであけっぴろげ。「こんなもの作ったのよ」とお手製のユズ皮の陳皮やイチョウ葉茶など届けてくださる。
 
 ところでその随員団には黄村以外にも実に錚々たるメンバーが顔を揃えていた。

 上述の山高石見守は帰国後に日本の博覧会・博物館の草分けとして行政事務にあたった。
 
 箕作麟祥(みつくりりんしょう)。祖父の阮甫(げんぽ)は津山藩出身の蘭学者・蘭医。ペリー来航時には米大統領国書を翻訳したり、対露交渉に当たったり、訳述書は99160冊余などまさに当時の「知の巨人」。また父は箕作秋坪(しゅうへい)。文久遣欧使節団に随行、帰国後は三叉学舎を開設。東郷平八郎、原敬、平沼麒一郎、大槻文平などを輩出した。麟祥自身は随行団として渡仏後徳川昭武と共にフランスに残り留学、後フランスナポレオン法典など5年の歳月をかけてフランスの諸民法を翻訳。「法律の元祖」と言われる。
 
商人出身で、「資本主義の父」と言われる渋沢栄一。武蔵国(埼玉県深谷市)出身。パリ万博随行団の御勘定格陸軍付調役として一行の経費一切を管理した。1年半のパリ滞在中、経済の理法、株式会社組織の実際、金融・銀行の仕組みなどを調査、研究。帰国後はそれらを実践、実業家として第一国立銀行や東京証券取引所など多種多様な企業を設立、経営、その盛名は今も語り継がれる。
 
渋沢の陰に隠れて忘れ去られた感のある(知らなかったのは私だけ?)もう一人の大商人が清水卯三郎。渋沢と同じ武蔵国(埼玉県羽生市)出身。パリ万博の日本館に日本の特産品を出品せよとの幕府からの公募(?)にただ一人応募。刀剣、火縄銃、酒、醤油、茶、化粧道具、屏風、鍼道具、釣り道具など広範囲の品を大量に取り揃えた。品物ばかりではない。日本館内に水茶屋を設え、そこに3人の芸者を派遣、絶大な人気を博した。ひょっとしてフランスを中心に沸き上がったジャポニスムの火付け役は彼だったのかも。
 
卯三郎の功はそればかりではない。博覧会終了後は欧米諸国を回って先進技術・機械を調査、活版印刷機、石版機械、陶器着色法、鉱物標本、西洋花火、歯科器材を輸入、普及に努めた。また江戸で箕作阮甫に蘭学を、下田でロシア人にロシア語を、横浜でアメリカ人から英語を学び、薩英戦争の際には通訳を務めたり、英国艦船に拘束されていた五代才助、松木弘安を保護したり、維新後は貿易商として活躍。明治になって平仮名普及にも努めるなど語学の天才でもあった。
 
この清水卯三郎に私は一番関心をそそられたので、その「伝記」を別に探すとあった、あった。一昨年2014年暮れ幻冬舎から「歴史に隠れた大商人清水卯三郎」(今井博昭著)。

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その他、杉浦愛蔵、栗本鋤雲、モン・ブラン伯、メリメ・カション、アレクサンダー・シーボルト(フィリップ・シーボルトの長男)等々、この激動の時代、かくも多士済々が輩出したのか。一人一人が出自も様々、一癖も二癖もある人物。すべてが後の明治の文明開化、先進技術習得・実践につながっている。本人たちの著作も多いし、また彼らを題材にした伝記、小説も多い。
 
知らなかった、知らなかった。こんな幕末の日欧交流史もあったんだ。面白いし、また後世の日本人として知らなければならない。この年齢になってこれから勉強するのは「日暮れて道遠し」の感があるけれど、逆に言えば「この歳だからわかる」「この歳だからやらなければ」の意味もあるだろう。
 
「ワクワク感と資料」を松明に、いざ、先人達の辿った山に、挑戦!


 

躍動するメキシコ~現駐メキシコ日本大使の講演会

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 御宿町在住のヴァイオリニスト黒沼ユリ子さんのお誘いで昨日6月18日(日)久しぶりに御宿に出かけた。
 
 現駐メキシコ日本大使山田彰氏の「躍動するメキシコ~日本・メキシコ関係の新たなるステージへ」と題する講演とその後のミニコンサートというイベント。両方とも御宿町民として2年、堂々たる御宿町のキーパーソンとなられたユリ子さんならではの企画だ。
 
 梅雨の合間のさわやかで晴れ上がった土曜日。会場の御宿町公民館大ホールはほぼ満席。なんといっても「日本・メキシコ交流」発祥の地だ。講師の山田大使夫妻に加えて駐日メキシコ大使のカルロス・アルマーダ夫妻や大使館関係者、それに日本メキシコアミーゴ会の上原会長以下会員多数。

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 講演に先立ってアルマーダ大使のスペイン語による挨拶。ご自分のアルマーダと日本の山田(ヤマーダ)大使のお名前が「マーダ」という語尾の発音が似ている所から互いに大使として日墨友好にさらに努力したい、というユーモアを交えた自己紹介。講演に先立ってメキシコ塔やそこにある400年友好記念像などご覧になってきた由。

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           (右から 山田大使、石田御宿町長、アルマーダ大使)
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 いよいよ講演。メキシコの総人口はいまや日本とほぼ同じ。タイトルにもあるようにこの近年の日本企業のメキシコ進出はめざましく、2013年には約700社、その内自動車メーカー(完成車と部品メーカー)が大部分を占めている。政治的にも安定しているが、何より隣国アメリカ合衆国への輸出に好都合という地理的条件が日本企業を引き付けているのだ、と。

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 経済ばかりではない。政治、文化、学術、スポーツ、とあらゆる分野で両国の関係は深まっている。ただ日本ではメキシコの実情があまりよく知られていず、「メキシコは治安の悪い、麻薬カルテルの横行する怖い国」というイメージが先行している。
 
 自分、駐日メキシコ大使としての役割はこうした日本人のメキシコに対するマイナスのイメージを払拭し、両国の益々の交流親善発展に尽くしたい。それには日墨交流にゆかりの深いここ御宿で現地の最新事情を語るのは意義深いことである。
 
 また1913年メキシコ革命時、マデロ大統領に対するクーデターが勃発した際、夫人の家族30名を公邸にかくまったのが日本の駐メキシコ公使堀口九萬一氏(詩人の堀口大学の父君)で、その時かくまわれた夫人のお孫さんに当たるのが現メキシコ大使アルマーダ氏夫人、という。(自分の経歴が引用されたので夫人、面映ゆそうだった)
 
 大略以上のようなお話しだったが、ほぼ30年前の人口8千万人、日本の自動車会社といえば日産自動車しかなかった時代しか経験していない私達には隔世の感あり、だった。
 
 ただこんなにも発展著しいメキシコで、何故、まだ麻薬カルテルがはびこり、(アルマーダ大使出身地シナロアでのシナロア・カルテルなど)、また何故、アメリカ合衆国の共和党大統領候補のドナルド・トランプ氏が強硬に排斥を叫んでいるのにメキシコからの不法移民が減らないのか、など質問したいことが沢山あったのだが、時間切れでできなかった。
 
 終了後「月の砂漠記念館」へ移動。開催中の「池田忠利展」。池田画伯は御宿在住、ウチのギャラリーの常連さんでもあり、また今回は黒沼ユリ子さんが熱心に応援されているし、何よりその鮮やかな色使いと造詣がいかにもメキシコ的、しかも今日はユリ子さんとお仲間2人による会場でのミニコンサート、というので楽しみに出かけた。

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 ユリ子さんはいつものようにメキシカン衣装。軽妙な語り口でいくつかの池田作品に、これぞピッタリ、と思う曲を選曲。例えば「てぇへんだ、てぇへんだ」というタイトルの作品にはドヴォルジャークの三重奏を、しかも軽やかな(技術的には、「てぇへんそうな」)ピッチカートを入れて。最後のサプライズ曲はなんと「猫ふんじゃった」! お仲間のヴァイオリン山森陽子さん、ヴィオラの上村里一さんも大熱演。絵と音楽で眼福、耳福。

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(二人の大使と御宿町長

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(ユリ子さんと池田画伯)

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 聴衆は曲が終わっても楽しい雰囲気に酔いしれて、なかなか解散せず、三々五々固まっては作品をバックにユリ子さんや池田画伯と記念撮影、メキシコ旅行談等々に花を咲かせ、夏至間近の御宿の長い夏の日を満喫したのでした。


東京外語同窓会 慶祝行事・懇親会 なんと卒業50年!

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「新緑の候、卒業50周年(昭和41年卒)または卒業25周年(平成3年卒)を迎えられる皆さま、そして同年(昭和37年または昭和62年)に入学された皆様におかれましてはご健勝にお過ごしのこととお慶び申し上げます…」という東京外語会同窓会からの案内が来たのは今春4月。
 
 え? 私ってもう卒業してから50年? びっくり。 卒業後25年の節目の全学年同窓会に出席したのがつい10年前のことみたいなのに。あれから早25年経ったのか…
 
 25周年の時はまだ母校は北区西ヶ原にあって在学した時のまんまのたたずまいだった。こじんまりした、規模からいうととても大学なんて言えない高校程度のキャンパス、学生数も1学年450人程度、語科も確か13科位だったかしら。
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                         (旧西ヶ原キャンパスは、記念碑のみ…つわもの共の夢の跡)

 それが現在は大変身。沿革によると1995年これまでの外国語学部を7課程(欧米第一、欧米第二、ロシア・東欧、東アジア、東南アジア、南・西アジア、日本)3大講座(言語・情報、総合文化、地域・国際)に改組。平成12年(2000年)には府中市に移転、堂々たる「大学」キャンパスに変容した。

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           (威風堂々の府中キャンパス)

 因みに私の卒業した科はスペイン科だが、この同級生とは毎年7月に同窓会を続けている。また科をまたいだ親しい仲間とも別グループで同窓会。去年秋には所属したサークルの女子部の仲間と久闊を叙した。
 
 その他海外では赴任先毎に「ロンドン外語会」とか「モスクワ外語会」とか親睦会を作って交流している。私も学生時代中南米に出かけた際各地外語会の先輩たちにお世話になった。メキシコ滞在時は「メキシコ外語会」にも顔を出した。
 
 でも母校「府中キャンパス」での同窓会というのはこういう節目の年しかない。しかも卒業後「50年」の全科同窓会というのは、初めて。(当たり前か…)。大規模大学に変容した母校の姿、わざわざ行くのはこの機しかない。
 
 西武多摩線の多磨駅下車。途中で同窓生発見! 50年振りなのに、「〇〇さんじゃない?」「△△さん!」とすぐ識別できるのは不思議。
 
 駅から徒歩5分。懐かしくて、かつ初めて、の母校の正門Arrival Court。外語カラーの牡丹色(ちょっと強烈!)の柱と校章(文明の光を表す炬火にL《ラテン語lingua 言語の意味》が巻き付き開学時の8つの言語を表す羽翼)の出迎え。その後方には堂々たる建物群。凄い威容! 

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 午後3時Agora Global棟の中のプロメティウスホール(講堂)で慶祝行事開会。立石博高学長は我がスペイン科の後輩。学長が後輩だなんて、私も年を取ったなぁ。なんてったって卒後50年だ。
 
 50年組と25年組の代表挨拶。それぞれ来し方、現況、を語る。聞いてるうちにはるかおぼろになった懐かしい学生時代のエピソードが甘く、ほろ苦く、浮かんで来る。
 
慶祝行事の縁の下の力持ち、現役学生のアテンドもうれしい。受付から写真撮影、飲食物のサーブ、etc.etc.頼もしい後輩たち。
 
そして同窓会の華、現役学生パフォーマンスは①競技ダンス部②ブラジル研究会の楽団演奏。両部とも「昔はなかったぁ」。

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               (ダンス競技部。何組も何組も華やかに軽やかに競演)

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              (ブラジル研究会の演奏とダンス。今年はリオ・オリンピック)

なんといっても女子学生が増えたのがこういう華やかな部が活動できる原因だろう。私達の時代、スペイン語クラス60人中女子はたった5人だった…(それにしてはモテなかったけど)。今は半分以上が女子? 私の姪っ子もドイツ語科だ。
 
 梅雨空の下、本部管理棟への階段で記念撮影。50年組は参加者90名。凄い!あの時の同学年の1/4だ。到底1回の撮影では入りきらないから2組に分ける。
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(英米科とスペイン科40名)

25年組は125名。この年代は海外駐在組や国内勤務でも中堅幹部級のはず、多忙を絵に描いたような年代のはずなのによくもこれだけ集まったもの。
 
Agora Global棟内の食堂ミールで懇親会。これも昔の「健ちゃん食堂」とは大違い。メニューも多分大違いだろう。
 
学長や幹事の挨拶も聞かばこそ。50年前の学生時代に戻って乾杯、旧交復活。みんな70歳過ぎというのにカクシャクたるものだ。

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         (学長挨拶)  

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           (盛り上がる懇親会場)
 
特に女性は当時の「女子会」がそのまま今も続いているという感じ。テレビや新聞のアンチエイジングの広告顔負けのツルッツル肌、黒柳徹子さんばりのブレーキ効かずのしゃべり放題。華やかな装い。しかもしっかり食べて飲んで。まだまだ青春真っ盛りだ。

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(女子会再会! 親衛隊も!)

折角の機会だから、普段会えないイタリア語、ロシア語、英語など他言語科卒の人たちと「お久し振りぃっ!」を言い合う。
 
懇親会はまだまだたけなわだったが、一応「中締め」後、そのまま残る組、別会場の2次会に移動する組、帰宅組に分かれ散会。時間があればその他研究棟や図書館、大学会館、など見たかったけど、それは次回訪問の時…
 
次回訪問って次はいつ? 卒後75年? あと25年後だ。そんなの無理よ、という人、結構来られるよ、という人。もっとも卒後63,62年組という大先輩もいらしたから、あと25年もあっという間か…
 
せめて外語の前身蕃所調所の1857年創立以来170年の2027年にはなんとかヨロヨロしながらも来られそうかな?



ギャラリー「源吾」訪問

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「夏バージョンに展示替えしました」と旧来の友人でオーナーの丸島さんの案内に7月初旬、かねて訪ねたいと思っていたギャラリー「源吾」を訪問した。
 
茂原市三ヶ谷交差点近く。主の謙虚な性格そのままの、国道293号沿いなのにひっそりと目立たない佇まい。でもこの門構えだけで、並々ならぬ主の風趣が感じられる。

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                (「源吾」門)

ご自宅の納屋を建築家と相談しいしい改造された、というがまず入口の厳めしくも素朴な板戸が、ここからは「趣味人の結界」と訪問者の心構えを促すかのよう。

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(門からギャラリーへのアプローチ)

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                 (板戸 ここから別世界始まる)

板戸を開けて上がり框から第1室に入る。正面に李朝大壺。最近入手されたもの。白磁に鉄で四つ爪の龍。凄い迫力。両側の陳列棚には丸島さんが数十年かけて収集した骨董と現代作家の絵画、工芸品の数々。全部ご自分の目で選ばれたものばっかり。
 
鍵の手になった第2室。三方を緑の庭木に囲まれ、広い窓からは涼風が室内を吹き渡る。梁をそのまま生かした天井も軽やかだ。「夏バージョン」は全体を青色に統一。

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                      (高い天井板と梁)

ペルシャ風ガラス壺、青磁花瓶、藍染め暖簾… 竹内栖鳳の涼し気な竹葉(?)の掛け軸、5月に我が「ギャラリー鶴舞窯」でお買い求めいただいた井上克さん作の油彩画「猫とじゃんけん」も青色基調の一部として、所を得ている。夫の青白磁皿も。

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                (涼風吹き渡る第2室)

第3室は茶室「春心庵」。8畳ほどのスペース。落ち着いた雰囲気で茶会用に貸し出しもするそうだ。今日は床の間には「閑坐聴松風」の掛け軸があったが、時には油彩画も掛ける、と。様式に捉われない自由な発想がいかにも丸島さんらしい。利休だって初めはこんな自由な発想で茶の湯を楽しんだに違いない。「茶道」なんて言わず。

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                                        (春心庵内部)

第2室に戻って抹茶を頂く。好みの茶碗を選べるというので、夫は李朝青磁の茶碗を、私は昭和天皇の衣装御用達だったという仕立て職人が趣味で作ったという大振りの井戸茶碗を選ぶ。「金継ぎ」が程よい景色になって好もしかったから。亭主が心を込めて点ててくれたたっぷりのお抹茶をゆっくり味わう。おいし~い。
 
お茶とお菓子をいただきながら、丸島さんの美術談義を伺う。それぞれの展示品に入手時の思い入れや作品の由来がとつとつと語られて、聞き飽きない。
 
春夏秋冬の季節毎に展示替えをするというので、9月の秋バージョンが今から楽しみだ。いや、それより美術に造詣の深い友人達を誘って、この夏バージョンを今一度味わってみたいものだ。
 
私設美術館 「源吾」のホームページは
開館日は毎週金土日10:0016:00
ただしオーナーの丸島幸雄さん、開館日でも留守のことがあるので、事前に確認して!
Tel. 0475-24-8571   茂原市三ヶ谷1301


真夏の京都に行ってきた(1)

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「祇園祭りを見に行こうじゃないか」
 京都大好き人間の夫が言う。夏の京都? 殺人的な暑さの?
「でも祇園祭りは夏しか見られないぞ」
 ごもっとも。というわけでそそくさと旅支度。7月21日~23日出かけてきた。
 
 京都着11時。まずは方広寺へ向かう。400年前スペイン系メキシコ人貴族ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーシアが訪れた際、その「日本見聞録」にわざわざ「大仏」という1章を割いて紹介した寺だ。豊臣秀吉発願、建立の当時奈良の東大寺より大きな大仏殿で、京都人には単に「大仏」として知られていた。現在は「京都に大仏? うそっ」と真に受けてもらえない位縮小され、地味なお寺になってしまったが、創建当時は現在の方広寺、その隣の豊国神社、そのまた隣の京都国立博物館、さらには七条通りを越えた蓮華王院(三十三間堂)の一部を含む広大な寺域を持つ大寺だったという。度々の大火や地震で崩壊しては再建されていたがロドリゴ訪問時(1609年)も豊臣秀頼の発願で再建中だった。ロドリゴが「世界の七不思議」の一として、随伴者に大仏の右手の親指の太さを測らせたら、「両腕をその指に回そうとしたが、2パルマ(掌2つ分)足りなかった」とある。一般には、境内の鐘に彫られた刻文中に「国家安康」「君臣豊楽」という文節があり、これが徳川家の滅亡、豊臣家の繁栄を図ったもの、として家康の激怒を買い、「大阪の陣」の発端となった、という故事の方がむしろ知られている。

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方広寺鐘楼。問題の刻文が鐘に)

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               (京都博物館正面。レンガの門、ファサードがレトロ)

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(豊国神社。秀吉の墓所は別)

 その名残が大和大路通りに沿って延々と続く巨石を積み上げた石垣。大仏自身はせっかちな秀吉のこと、とても銅製ではまだるっこい、というので木造にしたというが(もっともロドリゴはブロンズ像と思っていた)、この石垣だけでも太閤の権力をみせつけられる。

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               (旧大仏殿石垣)

 幸い方広寺副住職、木下さんのお話しを聞くことが出来たが、現在この歴史的に興味深いお寺を訪ねる人も少なく、またどんなにがんばっても大仏自身も敷地自体もあまりに巨大で、元のように復元するのは到底不可能、と。往時の繁栄ぶりを窺うのは数多く残る「洛中洛外図屏風」の画中と、その付近をいまだに「大仏」と呼ぶ地名位ではないだろうか。
 
 昼食は近くの「わらじや」で。珍しい店名は秀吉がここで休んだ際、わらじを脱いでくつろいだという故事にちなんでつけられたという。アツアツのスープに、白焼きし筒切りにしたウナギと野菜やご飯を入れ、卵で閉じた「鰻雑炊(うぞうすい)」という鍋料理。突き出しの香の物やお抹茶がいかにも京都。ウナギを卵で巻いた鰻巻き(うまき)も絶品。

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                        (うぞうすい)

 秀吉に倣って「わらじや」でゆっくり寛いだ後、七条通りをはさんだ三十三間堂。ここは方広寺と違って観光バスも乗り付ける名所。中国人が多い。千体もの観音様にそれぞれ作者名が記されているのも壮観だし、その観音像の前に立つ風神・雷神や28部衆など鎌倉時代の運慶・湛慶はじめ慶派の仏師の力作が並ぶ。全部国宝というのもさすが。

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                 (風神雷神像…宗達の風神雷神図の原型?)

 三十三間堂の東隣りの養源院。浅井長政の娘達、豊臣秀吉の側室淀君と二代将軍徳川秀忠の妻おごうの方が父の菩提を弔って創建した寺。こじんまりした、尼寺みたいな優美な佇まいだが、寺宝は凄い。なんと宗達の板絵・襖絵が4組もあるのだ。大板戸の画面いっぱいに白象、麒麟、獅子のそれぞれ雌雄。胡粉を塗り重ね、太く黒々した線の輪郭。また襖絵は狩野永徳画にも張り合うような緑青のみずみずしい松の巨木。ここはまた伏見城で切腹した鳥居元忠以下千名の血染めの天井板でも有名だが、それは優美なこの寺には不似合いじゃないかしら。
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              (宗達の獅子図)

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(迫力満点の白象図)

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(麒麟図)

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(襖絵 松図)

 四条通りを祇園から堀川通りに向かって歩く。八坂神社界隈は世界中からやって来た観光客と祇園後祭りを控えた市民の往来で相変わらずの雑踏。「十三屋」で黄楊の櫛を買い、「虎屋」で甘味休憩。ついでに四条通りと平行に走る錦市場をのぞき、鱧(はも)寿司を買う。みんな京都ならではの贅沢。
 
 錦市場に立ち寄ったのはもう一つの理由。アーケードを出はずれたところに江戸時代の奇想の画家で昨今ブームとなっている伊藤若冲の生家の青物店があった、というので。その記念碑発見。
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              (錦市場の出口に伊藤若冲の生家跡の碑) 

 とうとう新町通りまで歩いてしまった。後祭りの宵山が今日から始まるとて大変な賑わい。そうそう、この宵山を見るために暑い暑~い京都に来たんだ。
 
まず南観音山。豪華絢爛。京都の生んだ現代日本画家の代表、加山又造の「龍王渡海図」を「見送り」(山の後ろの掛け物。「鉾と山の構造」参照)に使ったことから同画伯の寄贈になる団扇絵が多数、誇らしげに展示してあった。

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(山と鉾の各部の名称)

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              (南観音山の麓(?)に集まる人々)

大船鉾は一昨年約150年振りに復活した大鉾。その復活を全国、いや全世界にアピールするために(?)、はるばる東京六本木でお披露目された位で、四条町やその寄町(周囲で盛り立て支援する町々)の人々の誇らしげな顔。
 
夕方からは「コンチキチン」の節回しで名高い「祇園ばやし」が始まる。小学生位の男の子が揃いの浴衣で山の最上階に腰を掛け、鉦や太鼓を鳴らす。大人達は中で笛や笙を奏でる。また鉾下では女の子達が名物の粽(ちまき)や蝋燭や手ぬぐいを独特のわらべ歌で販売する。「ろーそく一本ど~ぞ」の愛らしい呼び声につい買ってしまう観光客も多い。

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            (大船鉾の豪華な胴掛けと少年達の囃子方)

山や鉾の飾り提灯に明々と灯が入り、浴衣や絽の着物で着飾った人々の影が両側の商店の明かりに黒く浮かび上がると後祭りの巡行日を3日後に控えた宵々々山の夜はとっぷりと暮れて行った。
 
明日の宵々山見物を楽しみに今日の京はここまで。長い長~い東海道中の初日だった。



夏の京都に行ってきた(2)

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 二日目は夫のご先祖の旧跡(?)を訪ねる。亡くなった叔母の作成した家系図によると、その昔上京区新町通り寺之内上ル道正町13番地27に夫の曽祖父の一族が住んでいた、という。もう京都には何度も行っているのに、今まで探すことも、大勢いた父のきょうだいたちに問いただすこともしなかったのに、この年齢になってにわかにご先祖について知りたくなったらしい。

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                 (道正町周辺地図)

 上記の地番と家具屋だったというわずかな手掛かりを頼りにその地番周辺を歩く。京都は地番さえわかれば昔通りの町割りなので町を探すのは簡単だ。たださすがに番地は変更されていて、13番地などという10台の番地はなく、みんな400台の家々ばかりだ。郵便配達のおじさん、宅急便のお兄さん、老舗の醸造酢店主、結婚以来60有余年ここに住んでいるという老婦人、に訊いてみたけれど、みんな「〇〇さん? さぁ聞いたことないわぁ」と首を傾げるばかり。無理もない。多分大昔の所番地なのだ。せめて「子孫がご先祖の居住地を探索したよ」の記念に通りの写真を取る。

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               (父祖の地を踏む末裔)

 付近には表千家「不審菴」裏千家「今日庵」のそれぞれ茶室が隣同士に建ち、また尾形光琳の墓もある静かな寺町だ。こんなことでもなかったら滅多に観光目的では来なかっただろう。不思議な気分で通りを歩く。
 
 若冲所縁の相国寺に。広大な境内を持つ禅宗の大寺院だ。ここの大典顕常が若冲の才を認め、支援してくれたお礼に若冲が作品を奉献、その中の「動植綵絵」30点が維新の際皇室に買い上げられ相国寺存亡の危機を救った、という。折しも境内の承天閣ではその「動植採絵」の精密なコロタイプ印刷画展を開催中だった。先日東京上野の都美術館で本物展を展示したのだが、超満員、2~3時間待ち、というのであきらめたのだが、ここで精密レプリカが見られるとは! でもやっぱりコピーはコピー。がっかり。本物に迫れば迫るほど、本物の「裏彩色」とか「たらしこみ」の表現を味わいたいではないか? ただ釈迦三尊図や襖絵、自画像などは真筆で、これほどの作品を所蔵するのは、若冲ゆかりのこの寺を置いて他にない。

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                 (相国寺法堂(はっとう)

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(伊藤若冲展ポスター)

 相国寺から真っ直ぐ南下。両側に同志社大学と同志社女子大のレトロな赤煉瓦建て校舎。

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              (同志社女子大構内のレトロな記念館)

今出川通りを渡ると京都御苑。右側に御所の白い土塀が続く。左側の松林の中に京都迎賓館。当日見学は到底無理とあきらめていたら、飛び入り見学もできる、と聞いて早速列に並ぶ。以前テレビで、極致まで追い求めた日本の匠の技が随所に盛り込まれている、というので一度は見たかった。順路に従い、一室一室国賓気取りで見学。
「夕映えの間」「藤の間」の素晴らしい壁掛け、和室「桐の間」の晩さん会用漆塗りの大テーブル。庭園。宿泊施設こそ公開されていないが、肩の張る会議や交渉を終えた世界中のVIPがここでほっと一息くつろぎながら、日本の伝統文化と欧米文化の融合を味わえる、そんな空間の一部を垣間見ることができた。

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                (京都迎賓館内部案内パンフレット)

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(藤の間)

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(桐の間)

 大宮御所、仙洞御所を抜けて丸太通りに出る直前、松林に囲まれた富小路広場の一角、地図に博覧会場跡と記されたあたりに、幕末の頃公家の「西大路家」があった。その姫君と家宰だった夫の曽々々祖父の采女(もとめ)様が結婚したという。その二代末裔の長男卯一郎さんが家具屋として京都に残り、天子様の東京遷都に従って上京した次男、幸次郎さんが夫の曽祖父となった、とか。今は旧公家邸群は跡形もなく、残るは炎天下の草いきればかり。ここでも末裔訪問の記念に、と写真撮影。

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            (御苑内かつて西大路家のあった芝地に立つ末裔)

 想定外の迎賓館見学が入って楽しみだった「十二段屋」での元祖お茶漬けランチ逃す。元祖出し巻き卵、食べたかったなぁ。地下鉄烏丸線(suicaが使えた!)で四条通り下車。
 
京町家の代表「杉本家住宅」。これまで何回かテレビで同家の四季の行事風景や日常生活など何回か見ていたので、是非行ってみたかった。以前は呉服問屋「奈良屋」として全国に販売網を持っていたという杉本家。綾小路通りに面した間口の広い町家。夏の室礼(しつらい)とて障子や襖の代わりに簾、簾戸、それに庭の打ち水が清々しい。いくつもの部屋々々、お正月や雛祭りの時のおせちを用意する台所を順路に沿って見学。入口にテレビや雑誌で「京のおばんざい」や「京市民の暮らし」をよく紹介しているいかにも京美人の杉本節子さんがいらして杉本家の歴史や家の造りなど説明して下さる。

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           (杉本家のポスター)

それによると創業1743年。そういえば千葉でも昔「奈良屋」という呉服屋(現在千葉三越)があったが、と訊いてみると、まさに千葉県とは切っても切れない昔からの繋がりがあったのだ。「奈良屋」が関東に最初に店を持ったのが1764年千葉県佐原、次いで1807年同じく佐倉に店を開いた、という。展示されている帳簿や古文書も同家ばかりでなく京の商家の長い歴史を物語る。
 
宵の口になり、再び新町通りにずらりと並ぶ山鉾見物。昨日は南観音山と大船鉾を見て今日は北観音山。この町は旧三井家本店があったところで(今は病院になっている)、今でも三井一族からの寄付金が莫大なのだろう、壮大かつ豪奢な鉾。「見送」や「水引」など装飾品も毎年どれを選ぶか迷う程の衣装持ち(?!)。町衆も意気軒高。

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           (北観音山の豪奢な胴掛)
 
その北観音山に比べていかにも慎ましやかなのが八幡山。社殿の高さ1mと一見地味だが天明年間制作という祠は総金箔で中に運慶作の応神天皇騎馬像を安置しているとか。
 
通りの商家や仕舞屋(しもたや)が座敷を開け放って自慢の屏風や掛け軸、骨董などを展示。これも祇園祭ならではの古来からの風習だ。こんな機会でもないと普通の家々を窓や玄関口から無遠慮に覗き込むなどできない。

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                 (豪華な商家の調度品)

「百足屋(むかでや)」本店で南観音山を身近に見ながら祇園祭特別メニュー「三段重」を楽しむ。7時から始まった「コンチキチン」のお囃子も頭上から聞こえてくる。ウェイトレスは淑やかな若い女性、静岡県焼津出身の同志社大文学部の学生さんだそうな。古都京都に憧れて、とここでも京都ファン。もうすっかり京女だ。

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                 (百足屋のお弁当)

室町通りに飾られた鯉山には大航海時代ベルギーで作られたという毛織物が「見送」に掛けられている、というが、さすがに健脚を誇る(?)我々も朝からの強行軍で体力限界、おまけにビールと三段重で満腹。残念ながら見残して宿に戻る。ふ~っ、疲れた。

夏の京都に行ってきた③

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 京都3日目はまず仁和寺。バス59番線上には金閣寺や竜安寺など第1級の観光寺が並んでいるから大勢の観光客。隣席はスペインから来たカップル。男性はマドリッド、女性はバルセロナ出身。じゃ、今はどこに住んでるの?と訊くと「バルセロナだよ。万事レディファーストさ」と。二人は竜安寺で下車。そういえば彼女が先に降りたなぁ。
 
 いよいよ仁和寺。高校時代「これも仁和寺の法師…」という「徒然草」の一節を暗誦させられたっけ。またここの低木桜については「わたしゃお多福 御室の桜 ハナは低ても人が好く」という俗謡が有名だが、お参りしたのは今回初めて。
 
 バス停前に二王門。周囲に大きな建物が無いので二層の門がひときわそびえたつ。阿吽の仁王さまを拝んで左手の御殿(宸殿)に。ここは宇多天皇が先帝光孝天皇の遺志を継いで創建(888年)。天皇が退位・出家後は修行の場として、またお住居として御所を移されたため「御室御所(おむろごしょ)として人々に親しまれてきた。真言宗御室派総本山であり宇多天皇創道の「御室流華道」の家元でもある。檜皮葺、入母屋造り。

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                     (仁和寺二王門)

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                    (宸殿内の宇多天皇画像)

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                     ( 御室流生け花)

 残念ながら1887年(明治20年)焼失、明治末に忠実に再建されたというので白書院、黒書院など平安時代の皇居紫宸殿のたたずまいがそのまま残っている。白書院から勅使門を見通す白砂の南庭が広々、清々しい。回廊に座って眺める北庭は「わざと自然のまま」という趣で、肩ひじ張らない気楽さが感じられる。観光客もみんなここで千二百年前の大宮人の気分になって滝を見ながらゆっくり時を過ごす。遠くの青空に五重塔が浮かぶ。

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             (白書院から南庭を見る。向こうに勅使門)

 御殿を出て二王門から真北の金堂を目指す。参道の玉砂利に真夏真昼の太陽が反射して暑~いあつ~い。今年の京都は例年になく涼しい、と聞いたが、やっぱり暑い。と、その玉砂利を元気よく踏んで3人の外国人。なんとカナリア諸島から来たスペイン人! 道理で暑さに強いはず。暑さはともかく、ここへ来るのにまず飛行機でマドリッド、そこからまた日本、遠かったぁと。三段跳びだもんね、よく来たねぇ、とねぎらう。テネリフェにはいつ来るの?と訊かれ、次の機会に是非と愛想を言う。テネリフェってカナリア諸島の本島だっけ… 勉強不足でごめん。それにやっぱり随分遠い。生きてるうちに行かれるかしらん。
 
 中門をくぐると左手に例の花(鼻)の低い御室桜の林。周辺地下の土壌が粘土質で根が深く大きく張れずそのため、樹高が低いんだそうな。チビの私も生まれた場所が粘土質だったに違いない。中門右の休憩所で一休み。ここにもスペイン人カップル。スペイン人多いなぁ。国が財政難でも国民はたっぷり夏休みを取り海外旅行を満喫かぁ。

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                   (仁和寺御室桜林)

 国宝の金堂。江戸時代初期に御所の紫宸殿を移築したそうだ。暑いのでご本尊の国宝阿弥陀三尊をざっと拝んで、木陰に建つ五重塔へ。京都にある4基の五重塔の1基。重文。

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                   (仁和寺金堂 国宝)

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(仁和寺五重塔)

 東門からバス道に出た角の骨董店をのぞき、オーナーと骨董談義。昼食は二王門前の「佐近」で「佐近弁当」。京料理とフランス料理の融合という和洋折衷料理。

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                  (「佐近」弁当)

 市心に戻り今出川通の「鶴屋𠮷信」本店。一服しながら祇園祭時限定の「こんちきちん」と銘菓「京観世」を。宅配OK、というので荷物の重さを心配せずにいくらでも買いたいが、オッと財布が軽すぎ。宿に預けた荷物を受け取り雑踏の京都駅へ。ロッカーに荷を置くと最後のお目当て場所へ。
 
龍谷大学付属の「龍谷ミュージアム」。場所がわからず龍谷大学図書館周辺をウロウロ。でもウロウロの甲斐あって北小路通に面した西本願寺の国宝、唐門に遭遇。秀吉の伏見城の唐門を移築したというきらびやかな門。西本願寺本殿参拝は次回、たっぷり時間を取って参拝しよう。

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                (西本願寺 唐門、別名日暮門)

「龍谷ミュージアム」は20世紀初頭西本願寺第22代法主大谷光瑞派遣の「大谷探検隊」が収集した資料、及び西本願寺や龍谷大学所蔵の仏教関係資料を展示している。平常展「仏教の思想」~インドから日本へ~。2階はアジア全般の、3階は日本の仏教の歴史。両階展示を見るとインドから日本に仏教が伝来する過程で、国により時代により仏教がどのようにその地域の人々に受容され変容されてきたか、がわかる。
 
 圧巻は片岩のガンダーラ出土の仏立像。ギリシャ彫刻とアジアの仏像彫刻の両特徴を備えて気高い。同じく片岩に浮彫された釈迦の誕生から涅槃までの釈迦伝。大型スクリーンにはベゼクリク石窟の壁画の一場面、釈迦の前世の物語が。前世に初代(?)の釈迦がいて、その釈迦に一人の青年が善行をなす。すると次の世で彼はゴータマ・シッダールタとして生まれ、修行と思索の後、釈迦となる… うぅ~ん、釈迦の前の釈迦、釈迦の後の釈迦…、そうだよね、ゴータマ・シッダールタ誕生以前の世界にもその世界を創った釈迦っているはずだよね。

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           (ベゼクリク石窟内の映像。今回復元展示無かった)

 豊穣な仏教世界に頭混乱しながら美術館を出て、暑気さめやらぬ七条通を京都駅へ。これ以上例え時間と財布の余裕があっても、老舗京料理店に行く元気なし。冷房効いた駅中レストラン街でイタリアン食べて、新幹線。途中ハプニングもあったけど、無事東京駅。11時茂原行き深夜バスに駆け足乗車。鶴舞真夜中に帰着。
 
 三日間のハード旅、でも家につく頃には元気取り戻して、また行こ! 「そうだ、京都は今だ」のJR東海の宣伝文句ではないが、「そうだ、京都は何度でも」だ。


小さな橋よ…

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♪~小さな橋よぉ、竹の橋の下ぁ、川の水にぃ、流れてゆ~く~

小さい頃(?)ラジオからこんな歌が流れていたのを思い出したのは、毎朝私達夫婦のウォーキングコースの終点にある小さな橋がこの冬架け替え工事に入ったからだ。石川地区を流れる川だから「石川川」。その川に架かる橋だから「『石川川』橋」。いえ、「石川橋」。ややこしい。


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             (着工前の石川橋 後方は大蔵屋団地…市の広報webより)
 
勿論歌のように竹ではなくコンクリートの橋で長さは78m?、幅員は車がすれ違えない位狭く、4トン積みのトラックは通行禁止。それでも車と人、特に子供、が同時に渡るには危険、というので隣に歩行者専用橋が架かっている。(車と人が同時に渡るなんてことはここでは滅多に起こらない、と思うけど、そこが万事「石橋を叩いて渡る」日本方式)

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                   (歩行者専用橋)

目の前の石川集落とこっち側の大蔵屋団地をつなぐこの橋が封鎖され、歩行者専用橋だけが唯一残ったのがこの1月末。無論両岸の住民の方々には周知されていたのだろうが、我々当該地区以外の住民は知らなかったので、突然の封鎖にびっくり。
 
2月~3月の間に橋そのものが取り壊され、「石川川」は堰き止められ、ある時は直径1mもありそうな土管やら、同じく直径1mもの真っ黒いビニール袋がごろごろ両岸のたもとに積み上げられ、昼間はブルドーザーや土木作業員が黙々と働き、夜は煌々とまばゆいライトが、橋のない堰き止められた深い川を照らしていた。

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                    (工事進捗状況)

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                 (堰き止められた石川 川)

今年は降雪がなかったので工事は着々と進んでいるように見えた。当初看板には完成は3月末と書かれていたから、私達が瀬戸内海旅行から帰宅した時にはもう通行可能と予想していたのが、帰宅翌日行ってみたら、完成予定日が書き換えられていて、なんと5月中旬に延長されていた。
 
これまでこの橋を通勤に利用していた両岸住民の方々は付近に代替橋がないので、結構ご苦労が多かったらしい。宅配業者、郵便車、それどころか救急車や消防車も通行できず、そのためか4月初めに発生した大蔵屋団地隣接地の住宅火災消火時も大回りせざるをえなかったという。

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                    (迂回する車)

4月末そろそろ完成と思いカメラ持参で出かけてみたら、なんと再び看板の完成予定日は書き換えられていて7月29日と。そして工事責任者曰く「橋の完成なんて予定日より延長が普通だよ。ここだって今年いっぱいに出来ればいいんじゃないの。そんなに交通量も多くないしね」

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             (7月29日になった工事終了予定日)

そうかぁ。そういえばもっと交通量も多く、サブ幹線道路みたいな牛久の市原高校下に架かっていた手綱橋(国道297号線と市道6423号線をつなぐ)も完成までに2~3年(2010~2013年)かかってたよなぁ。
 
7月半ば過ぎ看板を見たら、依然完成予定日は7月29日。書き換えられてない! この分なら、と期待していたら20日過ぎ、いよいよ8月1日午前10時開通、との看板。
 
橋の開通式といえば、発注元の市の市長、担当土木会社社長、それに周辺地域住民の中から4世代の1家族が選ばれ正装で渡り初めをする、という美々しいセレモニーが思い浮かぶ。これは「絵」になるぞ。
 
当日9時40分カメラ片手にワクワクしながら橋のたもとに駆けつける。人垣で折角のセレモニーが見えなかったら、一期の不覚だ。100年の悔いを残す。夫は一番乗りで橋を渡ろうと大蔵屋団地側正面に陣取る。9時50分、工事担当会社の責任者と作業員、それに市から確認者らしき人2~3人? プラス私みたいな野次馬(?)数人。全部で15名もいたかな。

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                (開通10分前)

あとはだーれも来ない。10時3分前になっても、2分前にも。そうしていよいよ10時ジャスト。「じゃ、どけて!」と工事担当主任タカハシ氏のおよそセレモニーらしからぬ一声で作業員が橋の両側の通行止め標識の赤いコーンをどけたら、それが「開通」合図。

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           (完成告示…市広報webより)

えっ、これでおしまい? ホントにこれだけ? 拍子抜けでオロオロする私。夫運転の我が家のオンボロ車が開通第1号車。後続車はたった1台。工事担当者達もさっさと車に乗り込み、退去。セレモニー終了。

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             (新橋開通後イの一番に渡るウチの車)

これから100年もこの川に架かり住民の用に供せられるこの「石川橋」、こんなに簡単なセレモニーでは申し訳なくない? せめて、私だけでも、「これからよろしくお願いします」って欄干を撫でるのは僭越かしら? 石川地域側の橋のたもとに立つお地蔵さまにも「これからこの橋を守って下さい」とぺこりお辞儀して、半年にわたる橋脚工事見守りボランティア役を退役した。

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(完成日標識)

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(お地蔵さまこれからもこの橋をお守りください)



ミゲルとロリータを御宿へ案内した

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 メキシコはプエブラ市出身のミゲルが2年ぶりに今回は母親のロリータさんと来日した。
 
 私達スペイン語教室「アミーゴス」のメンバーが彼をアテンドし始めてかれこれ7年余り。来日5度目。特にメンバーの一人「れいちゃん」とその夫の「さむちゃん」にかわいがられて、お二人の家を「日本の我が家」とし、日本語を学び、日本中を旅行し、そこから同志社大学の留学生になったり、駐日メキシコ大使館のインターン生になったり、時には兄のセルヒオ君や妹のブレンダ嬢を連れてきたりしている。
 
 今回ロリータさんが定年で公認会計士としての勤務から解放されたのを機に、是非、というので8月22日から1カ月の予定で来日したもの。
 
 来日最初の土曜日は恒例の我がスペイン語クラス出席。なにしろ孫のような「かわいいミゲル」のママのこと、双方とも以前からすっかり顔なじみみたいな感じ。彼女も息子によく似て気さくでいっぺんにクラスに溶け込んでしまった。

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              (歓迎昼食会で)

 その翌日から母子の日本探訪旅行が始まり、皮切りは日光。温泉で浴衣着て大満悦。露天風呂も大浴場も「メキシコでもサウナで慣れてるから」と違和感無しだったとか。
 
 八月末から9月11日まで関西・山陽方面旅行。ミゲルのガールフレンドのいる大阪、モトカノのいる京都、奈良、広島、宮島、倉敷、姫路… えっ、そんな所まで? 日本に住んで70余年の私だって全部は行ってないよ。
 
 で市原に戻って来てからも13日は大相撲見物、そして14日は私の案内で「日本・メキシコ友好発祥の地」の御宿。ミゲルはもちろん何度も行っているが、来日したメキシコ人はみんなこの400年前からの日墨友好の地を訪れないわけには行かない。
 
 というわけで「アミーゴス」会長のカツシマさんに運転してもらって、ミゲルがそもそも日本に最初に来た時のスティ先のサキコさんとエリちゃん母子と6人で御宿へ。

 まずは「ヴァイオリンの家」。ヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんがこのほどJR御宿駅近くに建てたカラフルな3階建ての家。別名「日本=メキシコ友好の家」。外観はシックな青紫に赤い窓枠。メキシコの有名な女流画家フリーダ・カーロの家を彷彿とさせる。残念ながらまだ内部は未公開。今月30日オープン予定で今は外からファサードを眺めるだけ。

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         (ヴァイオリンの家。黒沼ユリ子さんミゲル達と入れ違いにメキシコへ)

 海辺に立つ「月の砂漠記念館」へ。折しも今月8日(木)から島田正治画伯の「メキシコ墨画展」開催中。40年間墨でメキシコの風景を描き尽くした島田先生の大作20点ほど。私達一家は旧知の間柄で、一昨年春は我がギャラリーでも個展を開催したし、実は先生をここに紹介したのも私達。初日には孫のモモコを連れて行ってお祝いの演奏をさせたが、今日は先生はご不在。代わりに館長のフジワラ氏と「御宿メキシコ・アミーゴ会」会長のツチヤ・タケヤ氏が迎えてくださる。お二人とも旧知の方々だ。

  (島田正治「メキシコ墨画展」イメージ 3
             (島田正治「メキシコ墨画展」案内ハガキ)   

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       (島田展初日の先生ご夫妻とモモコと私)  

 ミゲルをツチヤ氏に紹介すると、二人が実はある人を介して繋がりがあることが判明。ミゲルが最近メキシコのテカマチャルコ市主催の空手大会で通訳を務めた「テカマチャルコ空手連盟」会長のフリオ・フェルナンデス氏がその方。フェルナンデス氏が昨年御宿に2週間滞在の折のホームステイ先がツチヤ氏宅だったそうな。そんな縁で初対面ながら二人はすっかり意気投合。ミゲルは将来メキシコでは日本語教師、日本ではスペイン語教師志望なので、日墨双方の教育機関に幅広い交流関係をお持ちのツチヤ氏も応援を約束して下さった。またミゲルにしても将来御宿の貴重な応援者になってくれるに違いない。

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          (ミゲルとロリータをツチヤ氏に紹介。右はカツシマさんとサキコさん)

 ツチヤ氏の案内で御宿町庁舎ロビーにある通称「家康の時計」を見にいく。家康がイギリス人三浦按針(ウイリアム・アダムス)築造の帆船で御宿に漂着したスペイン系メキシコ貴族ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーシアをメキシコまで送り届け、セバスティアン・ビスカイノがその返礼として家康に届けた時計の精巧なレプリカだ。本物は久能山の東照宮にある。

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            (御宿町庁舎ロビーの家康の時計を囲んで)

 昼食は海辺を180度見渡せるホテル「サヤンテラス」のレストラン。今月は町をあげてのイセエビ祭りとてこの時期だけの「イセエビのブイヤベース」が売り。セルフ式サラダバーコーナーに何とラーメンまであり、ラーメン大好きのミゲル大喜び。
 
海は台風がらみの曇天、大波だったが、怖いもの知らずのサーファー達が波と格闘している。そのはるか沖合の先はメキシコだ。メキシコ中央部、海から遠いプエブラ市在住の二人は大喜び。
 
 午後はお定まりコースのメキシコ塔へ。いつもは日本、メキシコ、スペイン3国の国旗が翻っているのだが、今日はナシ。向上心旺盛なロリータが熱心に公園入口の案内板の説明を読んでいる最中、どやどやと年輩男性グループ4~5人。聞けば横須賀からやってきた「三浦按針(ウイリアム・アダムス)研究会」の方々だった。

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        (メキシコ塔案内板の前で)

 みなさん並々ならぬ「按針研究者」揃い。按針の居住地逸見(へみ)近くにお住まいで、按針の足跡を訪ね各地を訪問。今回はロドリゴがらみの関係から御宿に見えたとのこと。私が乏し~い按針知識を開陳しただけで皆さん大喜び。タッパの広い方々なのだ。そびえたつ塔をバックに記念撮影。まさに一期一会、の交流だ。別れ際にはメンバーのお一人吉江宏氏の豪華な児童向け絵本「ミステリアスな英国人 三浦按針」Ⅱを私とエリちゃんに下さった。ゆっくり拝読いたします。

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(意気軒高の按針研究会の方々と)

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         (頂いた絵本。面白そう!)
 
 そう言えばツチヤ氏もこれからはロドリゴだけでなく按針ゆかりの土地々々とも交流し、大航海時代の日本と海外との交流を更に発展させてゆきたい、とのご希望だったので、この方々をお引き合わせしたかった、と昼食後はやばやと氏とお別れしたのが悔やまれる。
 
 ロドリゴが遭難した海が眼下に見下ろせるメキシコ塔敷地先端にはラファエル・ゲレロ作の「抱擁」像。未来永劫日本、スペイン、メキシコ、フィリピン、そして按針の祖国イギリス、彼の乗船してきた船の母国オランダ、当時の敵も味方も、いや現在も世界中の国々、人々がみんなで「抱擁」すれば、世界は一つになれるのに…

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            (「抱擁」像の左右に立つ母子。後方はメキシコ塔)

 御宿探訪の最後のシメはロドリゴの漂着地の岩和田海岸。小さな浜辺で周囲は絶壁に囲まれている。こんな小さな浜に317名の外国人が漂着したなんて! ここへ来る度に当時の漂着人とそれを発見した御宿民の驚きが彷彿としてくる。そしてその驚きはそのままロリータとミゲルの感動と驚きでもあったろう。

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            (ロドリゴ漂着の岩和田海岸に立つ母子)

 本降りになった雨の中、もう1つの日墨交流の要地、大多喜城へは寄らずに帰途に着いた。400年前から続く互いの祖先達の交流発端に思いを馳せながら。
 
 二人は9月22日に帰国予定。残す所1週間足らず。東京湾クルーズの後、ロリータは私達のスペイン語クラス出席、お台場での「メキシカン・フェス」訪問、ミゲルはガールフレンドと金沢旅行、まだまだ盛りだくさんのスケジュール。どうか良い思い出をどっさり抱えて、どっさりお土産も抱えて、元気に無事に帰れますように! また会いましょう!

¡Buen viaje!  Esperando que nos veamospronto tanto en Japón como en México,



諏訪・木曽路・善光寺旅行(1 諏訪地方)

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 9月敬老の日の連休、3家族で木曽路を中心に3泊4日の旅を楽しんできた。
 
 まず茅野駅下車。レンタカーで諏訪上大社を目指す。以前は湖畔の諏訪下社に参拝したが、今回は上社。まず「前宮」。こじんまりした本殿の周囲に四本の御柱(おんばしら)。申年と寅年の七年毎に入れ替わるモミの丸太だ。この丸太の伐り出しから運搬までの行程はテレビでよく放映されるのだが、社にたどり着いた後何に使われるのか、以前から疑問だった。答えは、伊勢神宮のように社の柱や床、屋根などの葺き替えに使用されるのではなく、降臨する神の依代となるのだそうな。

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                   (前宮第4の御柱)

 この前宮は全国に25,000社ある諏訪大社の総元締、大祝(おおはふり)を務めた諏訪家の居宅だったし、その大祝は神と同一視されていたことからこちらも神社と崇拝されてきた、という。いかにも古代からの日本の神社の形式を受け継いできたという鄙びた神社だ。

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                     (前宮本殿)

 境内には清らかな小川が流れていて、ここで手や口を清める。孫達大喜びで清冽な流れに入って「みそぎ」(?)。日頃のワンパク魂が浄化されたかな。この流れの上方に長方形の建物があり、お神楽殿かと思ったら、「十間廊」といい古代にはなんと鹿の頭を75個も並べ、食用にするため神の許可を得たのだという。今でも「御頭祭」が残っている。

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             (母親まで日頃の行いをみそぎで洗い流す?)




 次は上社に向かう。前宮より格段に観光客が多い。なんといっても連休初日だし、諏訪地方の観光の目玉だ。参道には何軒もの土産物店やソバ屋が軒を連ねる。
 
本殿の社殿6棟が国の重要文化財とて厳かな雰囲気が境内一帯に漂う。その1棟、堂々たる拝殿内では大勢の参拝者が神官からお祓いを受けていた。拝所前には生後3か月の赤ちゃんを連れたお宮参りの家族がいて、車イスのおじいちゃんがいとおしそうに孫赤ちゃんに頬ずりしている。もう1カ月もすれば、ここは観光客の他に七五三の子供達とその家族が境内を埋め尽くすのだろう。

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                      (上社拝殿。堂々たる貫禄)

 この地方は幕末の名力士雷電為衛門の出身地としても名高く、境内にはそのブロンズ像や大土俵、大太鼓などが設けられている。ウチのワンパク兄弟早速相撲。折から大相撲秋場所、長野は今人気の御嶽海の地元だ。

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                    (兄弟対決)

 さて昼食は名物のソバでも、とソバ屋を物色したり、素朴派絵画の代表たるルソーやモーゼスおばあちゃんの作品を収蔵・展示している「ハーモ美術館」に行こう、晴れたから天竜川舟下りもいいねぇ、などスケジュール調整しているうちに、たった今兄と相撲を取ったチビが突然発熱。ぐったり。幸いJR飯田駅近くの久田小児科医院で診て下さるというので、母親と病児を医院に預け、我々は予定外の「元善光寺」(もとぜんこうじ)へ。
 
 このお寺の由来ははるか6世紀に遡る。仏教伝来時、親仏派の蘇我氏と親神道派の物部氏が争った際、物部氏が渡来した一光三尊像(552年百済の聖王が献上した阿弥陀如来とその脇侍)を難波の堀江に投擲、それを推古天皇8年(600年)信州麻績(おみ)の里(現在飯田市座光寺)の住人、本多善光が拾い上げ、当地に安置したという。その後皇極天皇元年にご本尊様は長野市に移され現在の善光寺となり、ここは「元善光寺」と呼ばれるようになった。ゆえに、長野の善光寺だけ参拝したのでは片参り、ご利益も半分?というわけで、この寺では両方の参拝を勧めていた。本堂床下の真っ暗な廊を足探り、手探りの戒壇めぐり。途中の「極楽の鍵」(?)に触れる事が出来れば、成仏間違いなし、と。

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             (元善光寺本殿)

「牛に引かれて善光寺参り」ではないが、はからずも「孫の発病で元善光寺参り」をしたわけだ。その孫、久田医院のスタッフの手厚い看護(感謝です!)と点滴のお蔭で風邪と急性胃腸炎による39.6度の熱や嘔吐もおさまり、雨中なんとか南木曽町吾妻に投宿できたのは元善光寺参拝のお蔭? ありがたや。

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       (南木曽町山中のレストランの豪快な丸太縦割りテーブル)


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