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Channel: コーヒーを挽きながら~岸本静江のひとり言~
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諏訪・木曽路・善光寺旅行(2 木曽路)

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 旅行2日目。朝から土砂降り。昨日高熱を発したチビの回復も兼ねて午前中はゆっくり「冨貴の森」ホテルのロビーでくつろぐ。天気もチビも回復してきたので、出発。すぐ木曽路が始まる。
 
 江戸時代に栄えた5街道の1、京都と江戸を結ぶ山中の街道、中山道69宿。そのうち、木曽路とは特に木曾山中に設けられた、馬篭(まごめ)、妻籠(つまご)、三留野(みどの)、野尻、須原、上松、福島、宮ノ越、藪原、奈良井、贄川(にえがわ)、の11宿のこと。

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 馬篭は中山道43番目の宿場で文豪島崎藤村の生誕地。旧本陣だった生家は今は「藤村記念館」。彼の代表作「夜明け前」の冒頭部分「木曽路はすべて山の中である」は来てみれば、実感。街道は中央をみかげ、両側を木曾石とよばれるごろった石で囲った狭くて急な坂道。大勢の観光客が昔の旅人気分で歩いている。両側はびっしりと土産物店、ソバ屋、木工品店、などが軒を連ねている。往時の面影をほうふつとさせるしっとりした宿場町だ。

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 ソバはいわずもがな、名物栗おこわや五平餅を満喫。レストランの大きく開いた窓からは晴天なら恵那山が正面に見えるというが、残念ながら今日は一面のモヤ。

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              (信州名物山菜天ぷらソバ)

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(栗おこわ膳)

旧脇本陣だった資料館でこの地の悲しい歴史を知る。木曾5木と言われた代表的なヒノキ、コウヤマキ、アスナロ、ネズコ、サワラの伐採を尾張藩から禁じられ、それまでそれらを材としての木材業、木工細工、薪炭生産に頼っていた領民の苦しみは並み大抵ではなかった、という。山また山、稲作用の平地など無理な地域だ。
 
資料館で熱心に見学している白人男性ひとり。聞けばタスマニアからの一人旅とか。そう言えばはるか半世紀以上前、英語の勉強にと文通したのが確かタスマニアの中学生だった。コアラのぬいぐるみを送ってもらったっけ。オーストラリアのメルボルンの向かい側。タスマニアデビルという有袋肉食獣(だっけ?)しか思い浮かばないが、聞けば夏休み40日、夏場の平均気温20~25度とか。うらやましい! 「タスマニア人は東京でもあんまりいない」とのことだが、それだけにはるばる地球の裏側から来た旅人、日本の良き印象を!
 
馬篭峠を越えれば妻籠宿。馬篭と違って平坦な道。旅籠や土産物店の軒灯が美しい。ここに灯が入れば、夕方疲れ切って馬篭峠を越えてきた、あるいは隣の三留野宿から辿り着いた旅人はどんなに安堵して一夜の宿を求めたことだろう。

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                     (妻籠宿)

隣の三留野宿は円空物が13体も見られる、というので楽しみにしていたが、土砂降りで通過。11宿と言っても全部が往時の面影を残して観光地にしているわけではない。わざわざ国道を降りて狭い道沿いに宿場跡を探し、付近の住民に訊ねても、わからない、という「名」のみ残る宿場もあった。上松宿近くの「寝覚ノ床」を目指す。
 
幸い雨も止み「寝覚ノ床」への最短道という公園を歩くが逆波渦巻く木曽川をはるか眼下に見下ろすばかり、到底行き着きそうになく断念。19号線に戻ってしばらく走ると格好の見晴台。見下ろすと、絶景! 眼下に中央本線の線路、その向こうに木曽川。その川が大きくS字形にカーブしている曲がり角に1コ1コが1軒の家みたいに巨大な花崗岩の岩が流れをせき止めるかのように連なっている。川床には行けなかったが、むしろこの高台からの俯瞰風景の方が全体を一望できてよかった。地名の由来は昔浦島太郎がやってきてここで竜宮城の乙姫さまからもらった玉手箱を開けたら白い煙がモクモク。ハッと目が覚める思いで周囲を見回すと、竜宮城に行った時から300年後の世界…という。

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              (圧巻「寝覚ノ床」 この写真では小さく見えるけど)

まだ3時というのに再び雨脚強く残りの宿場観光は明日にしてひたすら今夜の宿を目指す。木曽駒ヶ岳山中のうっそうとした森林をナビ頼りにくねくねと1時間余。
 
たっぷりした温泉と豪華な食事を満喫。翌日は敬老の日、我等高齢者、こんな贅沢もたまには許してもらおう。

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         (木曾駒高原ホテルの夕食)

雨も止んでチビも大分回復したので10時出発。木曽福島宿へ向かう。秋雨前線と台風14号接近で途中の黒川ダムの水量凄い。
 
福島宿に入ると道沿いに清潔そうな足湯公園。眼下に清流。木橋がかかり、いかにも鄙びた温泉宿場。田口という和菓子屋が大勢の客で列ができるほどにぎわっている。我々もすぐ並ぶ。ただ残念なことに栗子餅、ソバ饅頭など賞味期限が短く、「職場への土産にはできないなぁ」とてその場でモグモグ。

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(木曾福島宿の木橋)


車の往来にぎやかなメイン道路から「古道復活」という看板で狭い階段を上るともう一つの宿場「上の段」(うえんだん)。これぞ旧福島宿。安倍清明神社の奥に資料館。木曽節が流れ、原寸大の1/2の神輿やら、祭りの写真やら。
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              (旧木曾福島宿「上の段」(うえんだん)

ここからは2年前の9月大爆発した御嶽山が望めるはずだが、厚い雨雲に阻まれて遠望できず。宮ノ越宿、藪原宿を飛ばして奈良井宿へ。
 
ここは11宿中海抜最高、難所鳥居峠を控え、「奈良井千軒」と言われた大宿場。福島宿の木橋より規模の大きい木橋「奈良井の大橋」や深い軒先が特徴的な重要伝統的建造物群保存地区として人気が高い。通りも広く車の通行も多い。下町から中町、上町と緩やかな坂道を上る。両側に漆器店、曲げ物店、そしてここでも名物ソバ店。漆器店で息子夫婦が椀や行平(ゆきひら)を買ったので、つられて私達もつい椿皿を5枚も買ってしまう。「断捨離」を決め込んでいるはずなのに…

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                  (奈良井宿 下町通り)

坂下から上るにつれて凝った造りの店の数が増え、目移り、足移り。旧脇本陣だったという徳利屋で「季節の手打ちソバ付き五平餅定食」に舌鼓を打ったり、ジョン・レノンが絶賛したというソフトクリームをなめたり、中町と上町の境の「鍵の手」角の土産物店の軒先に張り出した本物のブドウ棚のブドウに引かれ、「職場の土産」を買い込んだり。まだまだ見たい所、寄りたい所一杯。でもでも…時間が。

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            (レトロな赤いポストと「たばこ」の看板)

16:18発の新幹線で帰京する次女一家を長野駅まで送るのが間にあうか。奈良井からの距離105km、しかも土砂降り、塩尻駅付近渋滞。ようやく高速道に入り息子必死に運転。その奮闘の甲斐あって予定時刻10分前に長野駅着。や~れやれ。
 
心理的・物理的重荷をおろした我々、心も軽く車も軽く、念願の「葛飾北斎美術館」へ向かって一路小布施へ。



諏訪・木曽路・善光寺旅行(3 小布施・善光寺)

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 長野駅から小布施まで30分。「北斎館」へ。小布施は80歳を過ぎた葛飾北斎が地元の豪商高井鴻山の援助の下に岩松院や東町・上町の祭屋台の天井画を描いた場所で、「北斎館」はこれら2基の屋台と貴重な肉筆画を展示した美術館。昭和51年(1978年)開館。

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                      (北斎館パンフレット)
 
 今回は開館40周年記念ということで常設展示作品の他肉筆浮世絵収集として有名な「氏家浮世絵コレクション」も(917日~1115)展示。北斎以外に菱川師宣、鈴木春信、勝川春章、喜多川歌麿etc.etc.の肉筆画がずら~り。ラッキー!
 
 その並みいる世界的な浮世絵画家作品の中でもやっぱり北斎は群を抜いてる。「酔余美人図」。芸妓のうたたねを描いたものなのになんでこんなに品格があるのだろう。その他にも雄大な山水画、庶民の生活が活写された道中画、そして魚や鳥などの鳥獣画… どんなジャンルのものでも「自家薬籠中の物」にしてしまう天才。

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            (1番下が「酔余美人図」)
 
 終日、いやせめて半日この美術館でゆっくりしたかったが、閉館時間と次の宿の夕食時間が… 心を残しながら雨中小布施を後に一路長野善光寺へ。

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            (善光寺金堂)

一光三尊阿弥陀如来を祀るこのお寺は仏教寺院の中でも別格だ。宗派に分派する以前の最古の寺院に属するので無宗派。天台宗の大勧進貫主(かんす)と浄土宗の大本願上人が住職として並立。しかも一般の寺院では本尊仏のある仏壇が正面に設えられているのに比べ、ここではその仏壇は正面左側、右半分はなんと神棚! 前ブログの元善光寺の項でも述べたが、このご本尊様を大阪堀江から拾い出した本多善光が仏教の守護神として祀られているのだ。まさに神仏混淆。しかも一心に念仏を唱えれば男女の別なく極楽成仏できる、というので、女人禁制の寺院が多かった時代、多くの女性の信仰を集めた。浄土宗の大本願上人さまが代々女性(代々鷹司家出身。ただし現お上人様は高齢のため副上人様))であるのもその由来か。

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                   (善光寺境内図 「淵之坊」はバス停から2棟目)

「淵之坊」は善光寺内に39カ所ある坊(浄土宗の寺)と院(天台宗の寺)の1。境内に入って右側の第二番目。清潔な3階建て。広々したお部屋。トイレと洗面所・風呂が共同以外は旅館と同じ。テレビもある。遅く到着したので通常6時の夕食を7時に変更して頂く。今夜は連休明けで宿泊客は我々ともう1組だけだったので我がままを。
 
 手書きの献立表が添えられた精進料理が次々に運ばれてくる。漆の食器に綺麗に盛り付けられた料理は一幅の絵のよう。般若湯(はんにゃとう)と称するアルコール類も。仏教は融通無碍だ。

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          (綺麗に盛り付けられた精進料理)
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                    (手書きの献立表)

 翌朝5時40分玄関集合。各坊はそれぞれ善光寺に仕える僧侶の自坊なので立派な仏間と善光寺本尊の由来などを示す曼荼羅が架かっている。女性案内人のシノハラさんの先導でいざ本堂のお朝事(あさじ)へ。
 
 お朝事は日の出と共に天台宗と浄土宗全山の僧侶が本堂に集まり順番に読経する365日の法要の事。参詣者は天台宗の貫主(天台宗の名刹から推挙される)が本堂へ向かう通り道に一列に並び、貫主が持つ数珠で頭を撫でてもらう。ごつごつとかなりの重みだ。
 
 堂内の内々陣には僧侶が詰め読経が始まる。前半は天台宗方式、後半は浄土宗方式。本尊は秘仏で、7年毎のご開帳時も前立仏しか拝めない。
 
 前半の読経が終わると参詣者は内陣から内々陣に招じ入れられ、祈願の種類(家内安全、先祖供養etc.)と名前を読み上げてくれる。我々は代々の先祖供養、息子夫婦は健康祈願。
 
 読経が済み、元善光寺と同じような真っ暗な「戒壇めぐり」を終えるとまた本堂の外陣で今度は尼上人様からお数珠撫で(優しく軽く、頭に蝶々がちょっと触れた程度)をしていただいて「お朝事」終了。

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 宿坊に戻り精進料理の朝食後今度はゆっくり境内散策。
 
「淵之坊」の参道を挟んだ向かい側は大本願の境内。尼上人様のお住まいも兼ねている。お上人様在宅の時は本誓殿入口の階段に和傘が置かれている由。今朝頭を撫でて下さった副上人様、随分お若そうで、細身で、もし得度しておられなかったら、丸の内界隈のビジネス街を颯爽と歩くキャリアウーマンとしても立派に通用するだろう。

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          (大本願正面の本誓殿。階段に傘が…)

仁王門の仁王像と荒神・大黒天像は明治の大彫刻家高村光雲と米原雲海の力作。土産物や休憩所、和菓子店などが並ぶ参道。抹茶と栗菓子で休憩。そのはずれに天台宗の大勧進。万善堂を中心に諸仏殿が立ち並ぶ一大境内だ。
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     (仁王門。わらじに混じってバレーシューズまで奉納されていた)

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               (朱塗りの橋を渡ると大勧進境内)

 二層入母屋造りの山門。ここに「善光寺」の扁額。3文字の中に5羽の鳩の姿が隠されているので別名「鳩字の額」、また「善」の字が牛の頭に見えるので「牛に引かれて善光寺参り」を象徴しているとも。階上からはにぎわう参道、その向こうに長野駅周辺の街並み。

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                  (山門。「善光寺」の額が見える)

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(山門から見た参道と奥は長野市街)

ぬれ仏、六地蔵を右手に見ながら再び金堂へ。国宝。二層になった屋根は上層が仏寺様式、下層が神社様式とか(反対かな? いずれにしても神仏混淆)。今度は内部をゆっくり拝見。閻魔様、弥勒菩薩様、お地蔵様を拝し、おびんずる様の足を撫でて「どうぞ、骨折した足首が完治しますように」とお願いする。
 
資料館を見学して外に出ると台風の接近でますます風雨吹き荒れる。ホウホウの体で境内を出、上西之門町の居心地よいレストランで雨宿り兼昼食。宿坊に預けた荷物を引き取り長野駅へ。予約より1時間早い新幹線にて帰京。
 
雨にたたられたり、孫の熱発あったり、のハプニング揃いの旅行だったが、いつの旅行でも、「一度は行ってみたい」と念願し、実現するとそれで満足しないで、「また来たい」、と思うのは、一体全体何故かしらん。何に憑かれているのかしらん?


ギャラリー鶴舞窯「遠山あき先生を偲ぶ」

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千葉県の文学界に大きな足跡を残したばかりでなく、郷土発掘や地域振興に生涯尽力された遠山あき先生が逝去されてこの1028日で1周年になる。

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                  (遺影に香を手向ける)

 来たる22日(土)には市原市から特別市民栄誉賞がご遺族に授与されるそうだ。同時に中央図書館では「故・遠山あき展」が開催される。ここではあき先生が生前愛用された背負いカゴ、80歳を越えてから習得されたパソコン機器、などを展示するという。

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                (市原市10月15日広報紙)

 我が「ギャラリー鶴舞窯」も市の企画と特に連携したわけではないが、長年先生に私淑した私として、どうしてもこの機会に先生の足跡、特に文学における足跡をもう一度関係者の方々と一緒に辿りたく、先生を偲ぶ集いを催すことにした。(105日~1106日)

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 遠山家にお願いして先生の郷土発掘の資料のホンの一部を拝借、展示した。先生がキチンと資料を整理、大きな角封筒に区分け分類しておられたので、各分野の研究者や興味をお持ちの方々には大いに参考になるのではないか。

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         (先生の収集した膨大な資料の一部)
 
 現に早速見えた女性は、「あ、ここに大多喜町老川に関しての資料があるわ、確か8年前これを調べたくて、先生にお教えを乞うたことがあるんです」と懐かし気に資料をひもどいていた。

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         (封筒表には先生の力強い筆跡が残る)
 
 先生の創設になる文学同人の作品集「槇」の全バックナンバーを揃えられたのは、私にとって望外の幸せだった。私は14号から「槇の会」の末席を汚していて、5号から現在までのナンバーは所有しているが、創刊号から4号までのは所有どころか見たことさえなかった。今回その貴重な「幻」の1~4号を遠山家から拝借できたのは、本当に「龍の玉」を拝める気持ちだ。

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                         (ずらりと並んだ「槇」のバックナンバー)

 最近数年の分厚い号に比べ、薄っぺらな創刊号。197812月刊行。ページ数わずか84ページ。でも会員数は多く、実に26人。作品を掲載していない人々も結構いるが、掲載作品はみな優品ばかりでとうてい初心者の文学研究会作品とは思えない。これは1には遠山さんが同人を千葉日報社の「千葉文学賞」の入賞者と佳作入賞者に絞ったためと2には監修者の作家故恒松恭助先生の厳しい添削を得たお蔭だろう。ジャンルも小説あり随筆あり童話あり短歌や俳句ありとバラエティーに富んでいる。

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             (「槇」創刊号。恒松先生による題字は現在も使用されている)

 ああ、こんな風に38年前に「槇」は発足したんだ、と先達のご苦労と喜びを思う。その頃からの会員で現在も大長老として短歌を発表し続けておられる牧野恭子さん、一度中途休会されて復帰された松葉瀬昭さん、病気療養中の勝山朗子さん、あの頃の「千葉に新しい文学サークルを作る」という意気ごみを改めて伺いたいものだ。
 
 またこの機会に「槇」同人の著書も並べた。先生の薫陶を受けたり、刺激をいただいたり、あるいは出版社を紹介していただいたりして出版にこぎつけた作品が多いのだ。

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                  (同人の著作の一部)

 ともあれ、いつも絵画や彫刻作品を夫岸本恭一の陶芸作品とのコラボで展示する我が「ギャラリー鶴舞窯」、オープンから17回目の今期、「文学」という新しいジャンルを開拓してみました。従来通りの陶芸、絵画、彫刻ファンの方々に加え、遠山ファン、遠山文学・一般文学好き、郷土史・歴史好き、小湊鉄道好き、美味しい物好き、どなたでも、ジャンルは問いません、お出かけくださ~い。

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        先生のご著作の一部も販売しております。


ギャラリー鶴舞窯「遠山あき先生を偲ぶ」展閉幕

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 1016日から開催した我が「ギャラリー鶴舞窯」での「遠山あき先生を偲ぶ」展、1106日をもって無事終了いたしました。
 
 会期中はいつものお客様に加えて大勢の遠山ファンにおいでいただき、遠山作品や作品の元になった資料を紐どきながら、「あら、鶴舞に発電所があったなんて知らなかった」「藤原式揚水機って、今高滝湖の湖畔美術館の脇にある模型がそうですか?」など地元の人でもあまり知らない郷土の史跡について、あらためて先生の取材力に感嘆しきりでした。
 
また当時の山村の暮らしや都会から農村に移住、慣れない農作業や大家族の中での長男の嫁としての先生のご苦労など話が弾みます。
 
 そうなれば必然的にご自分達の過去の経験にまで話題は広がり、「私も戦争ではこんな体験をしたわ」とか「私の母も同じような苦労をしたそうです」から始まり、「ボクの出身地は九州で、千葉とはまるで風土が違います」とか、「私の先祖は京都あたりから東北に逃れて最後は南部藩に落ち着いたそうで、私の苗字はその土地の地名を名乗らされたんで」とか、出身地の話、その土地の産物自慢、果ては「どこそこの○○は実にうまい」にまで話題の尽きることはありませんでした。
 
 私達の今回の「遠山あき先生」追悼展から1週間遅れで市原市の中央図書館でも「市原市特別市民栄誉賞受賞記念 遠山あき展」が開催、同じ116日に閉幕しましたので、私達も2回ほど見学に行きました。

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                             (市原市立中央図書館2階の会場風景

 こちらは2階の集会室全部を使って、アルバム、資料、著作から先生愛用の野良着、背負い籠、メガネ、パソコン、など多種多様なゆかりの品々、それに出演されたビデオ放送の放映など、「さすが公立図書館の実力発揮!」の展示でした。
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             (遠山先生の愛用の野良着と背負い籠。思わず
                「せんせ~」と駆け寄ってしまった)

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   (晩年になってモノにされた愛用のパソコンとメガネなど在りし日の
先生の卓上再現)

 1022日にはこの部屋で各界リーダー達出席のもとに小池市長から故先生に「市原市特別市民栄誉賞」が先生の次女の遠山宣子さんに授与されました。市原の埋もれた史跡を探訪・発掘し、それを広めることで市民に郷土の良さ、郷土への愛を喚起した先生の多大な業績を思えば、受賞は当然、むしろ、もっともっと早く、先生のご存命中に授与して欲しかった、と先生の1弟子としては悔しくてなりません。
 
 ともあれ市は市、私達は私達、先生の亡くなられた1028日の1周忌を挟んだこの2つの追悼展、先生の遺徳を偲ぶささやかなよすがとなったでしょうか。
 
 先生が生涯情熱を注がれた文学同人誌「槇」の第39号が間もなく刷了いたします。先生の追悼号ですが、昨年刊行した38号も先生ご逝去の10日後、今回も1周忌に間に合わず、これもやっぱり悔やまれることでした。
 
 相変らず不肖の弟子で申し訳ありません。刷了次第、真っ先にご霊前にお供えを、と思っております。合掌。


岩田亮子さんの活動報告会

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   カンボジアの孤児たちを支援する岩田亮子さんの活動報告会に1112日(土)行ってきた。
 
 亮子さんは私のいとこの長女、カンボジアの片田舎(首都プノンペンから北西300km、第2の都市バッタンバンからさらに10kmのタコック村)で8年前から、内戦で両親を亡くした戦災孤児や、DV被害児・エイズ孤児などの保護・自立支援に当たっている。

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       (ノリア孤児院のあるタコック村遠景…(亮子さんの絵葉書より)

 彼女のその活動については以前このブログで3年前(20131016日「岸本静江ブログ「身内にこんな立派な人が! (岩田亮子ちゃんについて」」で検索してください)に紹介したが、年1回の活動報告会に出席できたのは今回が初めて。
 
会場は東京中央区大伝馬町の沖縄料理の居酒屋「バール・ラジマル」。報告会は15:0018:00。懇親会18:3020:30。開会前から狭い会場は支援者で満員。亮子さんが津田塾大学卒ということで、同大生の支援組織「岩田亮子を支援するボランティアの会」の会員達の甲斐々々しい会場設営、受付、司会進行ぶりで報告会は滑らかに、和やかに進行した。
 

壁のスクリーンに次々映る「ノリア孤児院 Hopeof Children」(通称HOP)の子供達の生活振り。みんな元気いっぱい。生き生きした表情。畑や田んぼで稲や野菜を栽培し、収穫物で料理をし、英語を学び、将来の夢に向かって一心に学ぶ子供達。

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            (ノリア孤児院の元気な子供達。同上の絵葉書より)

でも最初は「こんな風でした」と亮子さん。油の浮いたドロドロの溜池で食器を洗い、屋根も床もない屋外での生活、食物も不十分、ボロボロの衣服を着た子供達の8年前の姿。
 
まず安全な飲み水の確保、屋根と床のある家とその敷地の確保、作物を栽培できる土地と灌漑水の確保。種や苗の獲得、栽培法の習得…… 気の遠くなるようなインフラ整備から、亮子さんとその活躍の原動力となったムニ師(カンボジア人僧侶で、ノリア孤児院創設者)の活動が始まった。
 
難局に直面する度に、体当たりで駆け回る亮子さん(こんなに細い体のどこにこんなエネルギーがあるんだろう)の熱意と、仏教国における僧侶ムニ師の実績と信用で次々難問解決、支援者増大、という。
 
「水が無い!」と水を求めて駆け回ると、熱意に感動した支援者が現れ水道を引いてくれた。ベテランに笑われながらも季節外れの時期に稲を植えると干ばつ!でもみんなで雨乞いすると、奇跡の雨が降った! 「家がない」と泣きつくとイギリス人夫妻の資金とイタリア人の設計で2軒の寄宿舎が建った。自分達の田畑で収穫できた余剰農産物を外国人向けカフェで出店しようとすると、意気に感じた店舗オーナーが店を譲ってくれた。その設計には日本人の建築士が、パンの製造には同じく日本人製パン屋さんが指導…etc.etc.
 
物柔らかでユーモアあふれる亮子さんの語り口で3時間の長丁場もあっという間。

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            (映像を見ながら説明する亮子さん)

会場には津田塾大生以外にも講演の中で登場した支援者の方々が大勢詰め掛けていらした。この「ラヂマル」のオーナーもその一人だし、パンの製法伝授者やカフェ設計の建築家、バイオマスリファイナリーの専門家岩本正和先生、国際協力NGO「風の会」の方々も出席していて、亮子さんが感謝の言葉と共に次々紹介すると、満場拍手、称賛の声。

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       (駆けつけてくれた支援者を紹介する亮子さん)

講演後の懇親会で同卓だった方はわざわざ那須塩原から駆けつけた4年来の支援者だとか。
 
私も自分一人で参加するより「こんな誇るべき女性が身内にいるのだし、私のような高齢世代でなく、息子達、孫達の世代にこそ応援して欲しい」と、事前に一族に声をかけたら、3名が応じてくれた。そして私の思惑通り、参加した彼等、亮子さん支援に何かしたい、と。
 
8年に及ぶ亮子さんとムニ師、支援者のお蔭で一応衣食住・教育のメドがたったこの孤児院の子供達。彼等の将来の課題は「自立」。カンボジアは内戦終結したとはいえ、まだまだ発展途上国だ。物資も資源も技術も何もかも不足している。とりわけ成人した子供達の働き口が足りない。この子達が自立できるような技術を身につけさせたい。それが亮子さんの目下の希望だ。
 
レストランのシェフになりたい子には調理技術を、電気屋になりたい子には電化製品の組み立て・修理技術を、という具合。それも日本のような先進国に連れて来て習得させたい。何しろ内戦でインテリ階級や高度技術を持つ専門家が虐殺されてしまった国だ。早い話、小学校で体育時「整列」させるのだけで1時間もかかった、という。そんな訓練を受けたことがなかったからだ。
 
今回亮子さんは孤児院の卒業生2人を連れて帰国、福岡市内の「居酒屋」のオーナーのご好意で住み込み修業させているという。他にも電化製品を扱う工場や電気屋さんなど彼らを受け入れ、教育してくれるボランティアを募集中だ。
 
講演の締めくくりに言った亮子さんの「やろうと思えば、何でもできる」は、実際に「困難にぶつかっても、へこたれず、ぶつかれば必ず応援者が現れ、目的が実現できる」ことを実証した人の言葉だけにずしりと胸に響く言葉だった。
 
慌ただしい滞在を終えて16日日本を発った亮子さん。これからもこの言葉を胸にカンボジアの子供達のために邁進し続けていくだろう。
 
がんばれ。後に続く人、支援する人が続々生まれることを祈っています。
 
いえ、祈るばかりではいけない。私もなにかできることで協力しなければ。
 
とりあえず、現地を見ることから始めようかしらん。世界遺産アンコールワット遺跡も近いそうだし、ついでに…(コラコラ)




フェスティバル・デ・ラティノ・ロコ Festival de Latino Loco

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友人でラティン歌手のナタリーさんと「マリアッチ・サムライ」のリーダー、サム・モレーノさんに誘われて第1回フェスティバル・デ・ラティノ・ロコに行って来た。
 
1118日(金)午後6:309:30 新宿の全労済ホール「スペース・ゼロ」

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一時活動を休止した「日本ラティンアメリカ音楽振興会」(会長KEN・バルガス氏、副会長浜村美智子さん)をサム・モレーノさんとナタリーさんが「ラティノ・ロコ Latino  Loco」と改名・復活、その復活記念として第1回フェスティバルを開催したもの。
 
多彩なプログラムにまず驚く。マリアッチあり、歌あり、ギター・ソロあり、インディアン・ハープ(アルパ)あり、女性サルサ・グループあり、要するにラティン・ミュージックと名のつくものは全部(Hay de todo)あり、ということ。
 
しょっぱなはそのサムさん率いる「マリアッチ・サムライ」。トランペット2、ヴァイオリン3、ヴィオエラ1、ギター1、ギタロン1の8名がマリアッチ制服ともいえるチャッロ衣装で登場。広い会場も割れんばかりに奏で上げる「La negra(ラ・ネグラ)」「El Mariachi  Samurai  ha  llegado(マリアッチ・サムライがやってきた)」「La Bikina(ラ・ビキナ)」。

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          (マリアッチ・サムライ  中央のギターがサム・モレーノ)

次に登場のジュンコさんはベテランらしくしっとりと「La distancia(隔たり)」と「Cenizas(私の愛の燃えがら)」。
 
若手のSawako Katalynaはメキシコ育ち、アメリカのマサチューセッツ工科大学卒というリケジョ。日本語・英語・スペイン語で作詞作曲を手掛けるシンガーソングライターでもあり将来が楽しみ。「El Rey(俺は王様)」とお馴染みの「Sabor a mí(サボール・ア・ミ)」
 
次はアルパ(インディアン・ハープ)。ベテランの志賀昭裕と可愛らしい坂本鈴のデュオ。志賀作曲の「熱帯雨林」とサルサ風にアレンジした「コーヒー・ルンバ」。あの物憂い感じの曲がこんなにも変化するんだ!

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                   (アルパのデュオ)

第1部のトリはトリオ・ロス・ペペスのお馴染みの3曲。「La Malagueña(ラ・マラゲーニャ)」「Te  quiero dijiste(君を愛して)」「Alma  Llanera(平原の魂)」。「Te  quiero  dijiste 」はナタリーさんの歌とダンスが色どりを添える。

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               (ナタリーとトリオ・ロス・ペペス)

第1部が終わり休憩になると、往年のラティンミュージックファンが、久しぶりに若かりし頃熱中した音楽に触れて、また同好の人々と語らえて、満足気に微笑みを会話を交わす。
 
客席最前列にナタリーさんの父上の杉山一夫氏。長年日本郵船の船員として世界を周航、革命前のキューバでラティン音楽の魅力に目覚め、2014,15年ナタリーさんとキューバ再訪。帰国後上述の「日本ラティンアメリカ音楽振興会」を応援しようと、「マリネロ(船員)基金」を創設、今回の第1回フェスティバル開催に漕ぎつけた陰の功労者だ。昨秋にはウチの「ギャラリー鶴舞窯」にも何度か足を運んで下さった。我が市原市牛久出身。
 

第2部はIrvig Kojiのギターソロから始まった。父のレキントギター奏者 Juan Cirilo  Cabadillaとラティン・ボーカリストTakakoの影響で幼少から音楽浸けの環境。若さ溢れるエネルギィッシュな演奏と当意即妙な語りで満場を魅了。「El cuarto de Tula(トゥーラの部屋)」と「Potpourri Sudamericano(南米ギターメドレー)」。

 

その彼の伴奏でNinaが歌うボサノバの「Samba em  Prelúdio(プレリュードのサンバ)」「Potpourri da  Música  Brasileiro(ブラジルメドレー)」。ブラジルの曲は他のラ米諸国の曲と一味違って、Saudade(哀愁)に満ちて聞こえる。まさにポルトガルのファドの伝統だ。

 
次は元気いっぱい、今日の司会者でもあるTakakoIrvig Kojiの母というので、彼のリードで満場からの呼び声「おか~ん!」で登場。「Llorando se fue(泣きながら)」「El Cumbanchero(エル・クンバンチェロ)」。

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            (Takako と Irvig Koji)

その元気をさらに10倍にした女性だけのサルサバンド「ソン・レイナス」登場。「La Bilirrubina(ラ・ビリルビーナ)」「Cu cu rru cucu Paloma(ククルククパローマ)」。ボーカル松村いづみに率いられた9人のレイナス(reinas 女王達)。まさに女王集団。女王達の命令一下、満場起立させられ、足踏み、手拍子、果ては踊りも強制され(?)全員床を踏み鳴らしての大狂乱。 トランペットは高らかに響き渡り、パーカッションは床に轟き、大音響、まさにラティン熱狂集団、Locos, Locos,  Latino Locoの体現。

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                              (Son Reinas 10人の女王様たち)

その熱気の中、再びナタリー登場。「マリネロ基金」とその創設者の父上に敬意を表して「日本郵船」船旗の二本線をデザインした衣装でその曲名も美空ひばりの「港町13番地」。

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                      (胸に日本郵船の船旗の二本線をあしらって踊るナタリー)

フィナーレに向けてトリオ・ロス・ペペスも再登場。「Vereda Tropical(南国の小道)」

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           (ベテラン、トリオ・ロス・ぺぺス)

そしてトリは一世を風靡したカリプソの女王、浜村美智子。「South of  Border(国境の南)」と十八番の「Banana Boat(バナナボート)」。あの「デーオォ~、デデデオォ~」を手話を交えて貫禄十分に歌い上げる。声量たっぷり。赤い花飾りハットとサブリナパンツ。最近「徹子の部屋」にも出演。まだまだ現役だ。昨年我が「ギャラリー鶴舞窯」に見えた時のさっそうたる姿を思い出す。

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              (大御所 浜村美智子のバナナボート)

いよいよフィナーレ。オールスター総出演。全員合唱、全員演奏、全員総踊り、聴衆総立ちでLatino  Locoのテーマ曲「El  Mariachi  Loco(マリアッチ・ロコ)」。

Latino Loco quiere bailar, quiere bailarLatino Loco … 

 (踊るよ、踊る、ラティノ・ロコ…)
 
そしてお馴染み「Cielito Lindo(シエリト・リンド)」。

  ♬ Ay, ay, ay, Canta y no llores, porquecantando se alegran, cielito

        lindo, los corazones! 

アィ、アィ、アィ! 泣かずに歌おう、歌えば心が、心が晴れるよ!

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                    (華やかなフィナーレ)
 

御宿「島田正治デー」・「サム・モレーノデー」

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 1123日(水)の祝日、今年何回目かの御宿訪問。ただ今回はその日でなければと、というスペシャル・デー。
 
 まず「月の砂漠記念館」での「島田正治墨画展」の最終日。9月から始まった会期中も、ご高齢と川崎在住という遠距離から、なかなか御宿まで足を運ばれなかった島田先生も、最終日とておみえになる、との事。この記念館での開催を紹介した私達としては是非とも行かねばならない日だったから。
 
 もう一つの理由はその島田先生に前回のブログで紹介したラティノ・ロコ事務局長のサム・モレーノさんを引き合わせること。
 
 さらにヴァイオリニストの黒沼ユリ子・俊子さんご姉妹にやはりサムさんを紹介すること。メキシコ=日本音楽友好に欠かせないお二人を、日墨友好のメッカ御宿で引き合わせるのはこの機をおいて他に見当たらない。(もっともユリ子さんはずっと以前サムのお店にいらしたことがあるそうだった)
 
 当日はあいにくの曇天で時々パラパラと雨が降ってくる、いつもは暖かい御宿にしては例外的に寒い寒い日だった。これでは。俊子さんと御宿ネットワークの人たち主催の「芋煮会」開催しているかしら?と危ぶみながら会場到着。
 
 でも開催していた! もうすぐ店じまいという時刻に滑り込みセーフ。アツアツの芋煮汁を頂きながらサム&ルミ夫妻とサムのレストラン「エル・リンコン・デ・サム」のボーイ兼ダンサーのメキシコ青年を黒沼姉妹に紹介。サムさん、面白がって同時開催のバザーで電動バリカン(600円)を買ったけど、後で何にお使いになったやら。

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                     (芋煮会会場。熱々の芋煮汁で身も心もホット。左端サムさんとバリカン?)

 次いで3人を黒沼さんの「ヴァイオリンの家」に案内。当日は3階のミニコンサート・ホールでユリ子さんと2人の弦楽器奏者によるコンサート開催、というので12階の談話室とヴァイオリン人形コレクションだけ拝見。おいしいメキシカン・コーヒーを頂いたり、展示の精緻な民族衣装に感心したり、また国際交流基金の元メキシコ駐在員ご一家と知り合ったり… これだから御宿訪問はいつも楽しい。

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            (ヴァイオリンの家1階談話室 壁面の民族衣装)
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(2階の渡部高揚ヴァイオリン人形コレクション)
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(3階のミニコンサートホールで、ユリ子さんと。前回訪問時の写真)

 「ヴァイオリンの家」を出て、後から駆けつけたサムさんの「マリアッチ・サムライ」の3人の美女ヴァイオリニストやフィルムカメラにこだわる成田在住の若者などを案内してメキシコ塔へ。
 
 サムさんご夫妻は7年前この塔のある岬突端の「日墨友好記念『抱擁』像」(Estatua de Abrazo)除幕式に出席したとの事だったが(台座に彼の名も)、他の人は初めてで、御宿の、メキシコとの友好上地理的、歴史的重要性を改めて認識した模様。

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                (メキシコ塔をバックに、抱擁像を囲んで)

 岬を下ってロドリゴ漂着の浜へ。今日はたださえあの狭い浜辺が上げ潮で崖間際まで波頭が打ち寄せ、400年前のロドリゴ漂着時の荒波打ち寄せる光景が彷彿としてくる。漂着は930日というが、それは日本の旧暦での話、現在の暦では10月末か11月初頭。難破船から泳いで脱出してきた人々にとっては、今日のように身も凍えるような寒さだったに違いない。
 
 いよいよ「月の砂漠記念館」へ。会場で島田先生待ちかねていらした。メキシコのポンチョがよくお似合い。今日は夫人の体調思わしくなく、そのかわり次女のハルヒさんと友人のヤマモト夫妻の付き添い。ヤマモト夫人はとても優雅なメキシコ人。
 
とかくメキシコを描く画家がメキシコ独特の強烈な色彩に影響されて、やたら多色、過剰な原色を用い、あるいは古代メキシコ絵画・壁画の模倣的作品を表出しがちな中、墨一色で勝負してきた島田作品が、むしろ豊かな色彩、堅固な石造物を実感させるのは、作家の力量と共に、周囲に影響されないという作家個人の強固な自我があるからだろう。
 
「ボクは誰に教わったわけでもなく、誰からの影響もなく、何も模倣せず、ボク独自の道を追求してきたからね」と先生は60有余年のご自分の画業を矜持と共に振り返る。
 
 2カ月半の会期中、随分色々な鑑賞者があり、中にはぶらっと入ったまま4時間も絵に没頭していた福島からの来館者もいらした由。また御宿在住の著名なグラフィック・アーティストのYさんも「こんなに独創的で秀逸な作品、滅多に見られない」と。先日来館されたアルマーダ駐日メキシコ大使もその芸術性を高く評価、是非東京のメキシコ大使館でも、と開催希望された由。
 
 島田先生とサムさんお互いの自己紹介の後、サムさんの島田先生へのオマージュ演奏が始まった。


 まず3人のヴァイオリニストによる「チャールダーシュ」。みなさんクラシック奏者でもあるので、このテンポの早い曲を見事なハーモニーで弾きこなす。
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            (3人のヴァイオリニスト)

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             (島田先生を前に先生へのオマージュ演奏)

 そしていよいよサムの登場。奇しくもその日が彼の70歳の誕生日、ということでラティン歌手で友人のナタリーさんから贈られたバースデー・プレゼントが披露される。この「サプライズ」にサムさん、大喜び。メキシコ版ハッピー・バースデー曲、マニャニータ(Mañanitas)を、「自分で自分の誕生日にこの歌を歌うなんて初めて」と言いながら、高らかに歌い上げる。聴衆みんなもこの歌とプレゼントのお菓子のおすそ分けにあずかる。

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             (バースデープレゼントを前にMañanitasを歌うサム)

その他サム夫人ルミさんとメキシコ人青年の小気味よくサパテアードを効かせたダンス、私の大好きな「泣き女」(La Llorona)等々、まるで本物のメキシコ、マリアッチ広場にいるような幸福なひと時だった。

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               (歌い踊るマリアッチ・サムライ)

島田先生もご自分の個展がこんな盛り上がりで閉幕することができて、サムさん一行に、そして我々にまで感謝して下さる。
 
「来夏には是非御宿で『マリアッチ・サムライ』のコンサートをやりたいね」とすっかり御宿が気に入ってご機嫌なサム。「今度は恵比寿の『エル・リンコン・デ・サム』に懐かしいメキシコ料理を食べに行きますよ」と島田先生。「その両方にお供します!」と我々。
 
こうして短い霜月の1日はあっという間に暮れたが、夏至の日にも匹敵するような実に中身の濃い、長~く熱~く感じられる1日だった。


「槇39号」発刊

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 1116日私達の文学同人誌「槇」39号が発刊された。
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 今号はこれまでのページ数に比べると2/3ほどのページ数。書き手も大分減って寂しい限りだ。
 
仕方がない。去年秋、会の創設者にして主宰者の農民文学作家の遠山あき先生が亡くなり、その半年前会長の三好洋さんも亡くなり、事務・連絡関係を一手に引き受けていた勝山朗子さんが病に倒れ、その他主要メンバーが高齢を理由に引退…等々。その反面新規入会者も少ない、という昨今どの文学同人会にも共通する現象が我が「槇の会」にも影響を及ぼしているからだ。
 
だからといって、遠山先生がおられなくなったからといって、40年続いた「会」解散、廃刊、というわけには行かない。失われた屋台骨、いや失われかけた「槇」という家そのものを廃屋にしてしまうのはいかにも口惜しい。
 
40年前遠山先生がこの会を創設した時は千葉日報社主催の「千葉文学賞」を受賞された時で、「賞を受けたからといって、いきなりひとかどの作家になれるわけではない、受賞したことが作家へのスタート地点、受賞者が互いに切磋琢磨しあって、本格的な作家になろう」、と他の同賞受賞者等に呼びかけて、賛同者が一堂に集ったのだという。
 
「槇1号」にはそのいきさつが詳しく書いてあり、その結果30人近くの賛同者が結集、同人誌1号にしては粒ぞろいの作品が掲載されている。
 
先達の軌跡を辿ろう。多くの作家志望者、文章修行希望者に広く参加を呼びかけよう。
 
それには自分達のこの39号掲載作品を呼び掛けに相応しいものにしよう。
 
それに39号は「遠山先生追悼号」でもある。先生の墓前に捧げるにふさわしい作品にしよう。そう思って会員一同がんばって上梓した作品集だ。
 
表紙絵は乾浩さんの切り絵彩色「酒房・山居倉庫と欅並木」。毎号美しい絵で、これを見ただけで内容を想像してワクワク。中扉のユリの花のカットも可憐。
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まず巻頭は乾浩作「乳牛ぶちとの別れ」。歴史小説作家の乾さんがガラリと作風を変えて北海道の酪農家庭の少年の目から見た人間と牛の愛情あふれる交流を描く。牛の出産時の緊迫した描写は現地で実際に体験した乾さんならではの迫力ある作品。
 
次作は谷チイ子「老いの繰り言」。谷さんお得意の私小説風作品。身辺実生活を克明に描きながら、巧妙に創作部分が交織された虚々実々の作品。手練れの一篇。
 
松葉瀬昭「つれづれに」。乾さん同様歴史物を得意とする松葉瀬さんの今回は随筆集。ご自分の闘病経験からの辛辣な病院批判や夫婦間の微妙な心理の綾など深い人間観察記録。
 
新人小島茂「里山キャバレー道中」。従来の日本語の言葉遣いに慣れた我々旧人類。「これって新文体? それとも我々には理解不能の若者言葉?」と戸惑わされる。若い人の感想が聞きたいな。
 
再び乾浩作品「梅木の下」。戦国時代の房総の武士団を描く連作の1。千葉県人主体の「槇」だからこその作品。多古城城代で剣豪の飯篠家直は主君千葉胤宣を守り切れず、香取神宮境内の梅木山に籠り、「剣で生きるとはどういうことか」と武道の奥義を求めて厳しい修行を己に課し、ある日豁然大悟する。
 
岸本静江作「ここはジパング」第5章。いよいよ主人公ロドリゴがマニラから嵐での漂着を装って日本の御宿に到着、大多喜城主本田忠朝、イギリス人ウイリアム・アダムス、将軍秀忠と面会、最後に家康と会いまみえるべく駿府を目指すまで。
 
牧野恭子「短歌集~昭和も遥か~」。96歳になった牧野さん、「遺言のつもりで書きました」とおっしゃるが、まだまだみずみずしい感性の発露。来号の作品もお待ちしますね。
 
松葉瀬昭「川柳」ここにも軽薄に流動する時流を鋭く辛口で皮肉る松葉瀬流が。
 
特集「遠山あき先生追悼」。釈迦涅槃時ではないが、各人の追悼文からは先生の遺徳を偲んだ弟子たちの嘆きや涙、感謝の言葉、が溢れる。先生の次女の宣子さんからの特別寄稿も掲載。遠山先生、本当にありがとうございました。
 
さていよいよ来年は40号を刊行する節目の年。新生「槇」スタートの号にもなる。ハチマキを締め直し、自分自身の作風もこの機に大転換、をめざし、いざ!



2017年明けましておめでとうございます!

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2017年明けましておめでとうございます!
A HAPPY NEW YEAR!
¡FELIZ AÑO NUEVO!

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 いよいよ2017年も明けましたね。今年は皆様にとってどんな年になるでしょうか? 健康で幸多き、ワクワクするような年でありますよう。
 
 私達にとって、また我が一族にとって、健康で、仲良く助け合って暮らせたことが何よりでした。
 
 2回の家族旅行(山陽方面と長野地方)、夫婦旅行(京都)、春秋のギャラリー展開催、etc.etc.も無事も敢行したばかりでなく、どれも楽しく思い出深い行事ばかりでした。
 
 今年のスケジュールもいくつか決めており、春の「ギャラリー鶴舞窯」展には夫の個展。これまでも2回「岸本恭一作陶展」は開催しておりますが、今回は初の「油彩画展」。これまでも作陶と同時に油彩画、アクリル画を手掛けてきましたが、最近は特にのめり込んで描いております。
 
 昨年夏友人宇佐美玲子さんから短歌集の表紙画を依頼され、表紙だけでなく扉絵まで幸いに好評をいただき、すっかり自信をつけました。今年の年賀状はその原画を使用したものです。
 
 今回は主として油彩画の展示になりますが、陶芸家としての岸本恭一の作品も同時展示、図らずも一人二役、日本ハムの大谷ではありませんが、二刀流の芸術をお楽しみ下さい。
 
 旅行も計画しています。国内でも四国、沖縄、等々、まだまだ未踏の地が一杯。さらに何度行っても探索し足りない京都、奈良… それに元気なうちに行っておきたい海外旅行、カンボジア、キューバ…
 そのうちどれかは是非実現したい!
 
 自分の作品としてはこの5年間書き続けてきた「ここはジパング」第6章を完成させ、これをもってなんとか1冊の本にまとめたいと思っています。それと並行して次の作品も構想し始めました。
 
この年齢になって夫婦共に創作に意欲を持てるのはこの上ないシアワセ。
 
 この意欲とスケジュールを実現するには一に健康、二に健康、三、四がなくて五に健康。これからも毎朝のウォーキング、リハビリ体操を欠かさず、野菜たっぷりのサラダを食べ、規則正しい生活習慣を心掛けます(きっぱり!)
 
 どうか皆様、今年もよろしくお願い致します。


弦楽四重奏の会~黒沼ユリ子のトーク付き弦楽コンサートvol.2

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 新年早々の13日(金)御宿「楽しい弦楽四重奏の会」のコンサートを楽しむため、「黒沼ユリ子のヴァイオリンの家」に行ってきた。
 
 このヴァイオリンの家は何度か足を運び、このブログでも何度か紹介しているが、ここでのコンサートは初めて。

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 3階のポンセホール、定員50名のホールは満員。1月9日(成人の日)にも同じプログラムで2回も公演し、今日が3回目だというのにファンがこんなにも多いのか、文字通り立錐の余地もない。演奏者の息遣い、衣装の衣擦れ、どころか熱演のあまりの飛び散る汗までかかりそう。

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                  (立ち見の人も!)

 その聴衆の中に友人ミヨちゃんの顔を見つけびっくり。以前島田正治展で御宿に来てすっかり「ヴァイオリンの家」のファンになり、是非ユリ子さんのナマ演奏を聞きたい、とご近所の友人2名を誘って来た、とのこと。
 
コンサートはタイトルに「黒沼ユリ子のトーク付き」とあるようにユリ子さんの軽妙で該博な音楽知識をふんだんに盛り込んだトークで始まった。これがあるから普通のコンサートの、音楽だけを楽しむ、というクラッシックコンサートとは一味違う、「名手の音楽プラス語り」もあるから「たまらない!」というユリ子ファンが多い所以だろう。

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                   (楽しいユリ子節)

で、春といえばこれ、という軽快で来たるべき陽春を予感させる「ひばり」から始まった曲目は、
ハイドン      弦楽四重奏曲 Op.64-5「ひばり」より第一楽章
ベートーベン    弦楽四重奏曲 Op.18-1より第二楽章
ドヴォルジャーク  弦楽四重奏曲「アメリカ」
 
演奏者は黒沼ユリ子さんとクァルテットを長年組んでおられる山森陽子(ヴァイオリン)、植村理一(ヴィオラ)、宮澤等(チェロ)、御宿でも度々公演しておられるお馴染みのベテランだ。

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            (アンサンブルの名手たち)

2曲目のベートーベンは音楽に疎い私、今まで知らなかった曲。まだそれほど知られていなかった若者ベートーベンの鬱屈した感情が暗い情念のような、でも所々後年のベートーベンの艶やかさが垣間見える、といった曲。(それもユリ子さんの適切な説明あったればこそ、ここに知ったかぶりで書けるのだ。)
 
ユリ子さんが十代から第二の祖国のように親しんできたチェコ。そのチェコのドヴォルジャークが望郷の思いにさいなまれながら作曲した「アメリカ」。いつも世界中を演奏旅行し、メキシコに半生を送ったユリ子さんにとってこの曲は演奏する度にご自分の感情を込めて弾かれるに違いない。
 
アンコール曲2曲。1曲はお馴染みトロイメライ。2曲目は曲目わからないけど(ごめんなさい)、ピッチカートが4人の演奏者の、時に息を合わせ、時にずらし(ずれる、かな?)、が面白い。
 
終了後演奏者と会場で語り合えるのもこの小さな、ファミリーホールのメリット。私達がユリ子さんにミヨちゃんとその友人を引き合わせると、3人はこんな事は初めて、というので大感激。3人とも内房線五井の住民で外房の御宿はウン十年ぶり。遥々房総半島を横断して聞きに来た甲斐ありましたね。

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         (憧れの音楽家と直に、しかも演奏会場で話せて大感激のファン)

次回も是非、しかももっとたくさんの友人・家族を誘って、という。
 
こういう形で黒沼ユリ子ファン、ポンセホールファン、ヴァイオリンの家ファン、さらに御宿ファンがどんどん増えていったら万々歳。いや、もうそうなりつつある。
 
そうそう、次回のコンサートは、
   320日(祝日)午後1時と3時の2回、
     21日(火)午後1時の計3回。
 
上記4人の他に藤井壮一郎(ヴィオラ)が加わっての弦楽五重奏のコンサート。曲目はモーツアルトだそうですよ。お早めに予約を。
 
予約先    
    黒沼ユリ子のヴァイオリンの家
     299-5106   千葉県夷隅郡御宿町須賀478-2
       電話  0470-62-5565
              メールアドレス  casa.violin930@gmail.com
 

「満席お断り」にならない内に私達も早めに予約しようっと!


部屋をリフォーム→リホーム!

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 今年の冬の寒さは格別。なにしろこの暖かい房総半島で11月に積雪があったのだから。
 
 で、長年やろう、やろうと思っていた2室の床断熱工事とガラスの二重窓工事を工務店にお願いした。リフォーム専門会社だけど、店名は「リホームプラザ」。なるほどリフォームして再びホーム(リホーム)として住み心地良くしてあげましょう、という優し~いお店の企業哲学そのもののネーミングだ。
 
 発注が年末だったので、ガラス戸の工事は暮れの内にやってもらえたが床工事は新年になった。
 
 そのガラス戸。真空ガラスにするとかなりの価格、というので恐る恐る見積もってもらう。と、新築でゼロから作ってもらうと高額になるが、ウチの場合サッシ戸の枠がそのまま使え、ガラスだけを交換すればいい、とのこと。スペーシアという最高級クラスにしても、価格は新規に比べて半額近いという。ありがたい。清水の舞台から飛び降りる気になり居間と寝室、計16枚の交換を依頼。
 
 当日熟練の職人さん父子が手際よく交換工事、わずか半日で終了。見た目は今までのとほとんど変わらないが結露がなくなり、外気温が下がっても室内で触るガラス面はさほど冷たくない。これならお正月休みに帰郷する子供達、孫達もかなり安心して泊まってくれるだろう。何しろ彼等は「ド寒がり」の上、都会の断熱・暖房の効いた家・マンション暮らしで、二言目には「鶴舞は寒い!」と宣うのだから。
 
 正月が過ぎ子供・孫達が帰った翌日から早速リフォーム予定部屋の片づけ開始。暮れから始めたかったのだが、彼等がいる間はその部屋を占領しているのだから片付けもできないし、手伝ってももらえない。
 
 一番大変だったのは(今でも継続中)「図書室」の本と本棚移動。毎日少しずつ本を移動。移動しながらついでに不要な本やジャンル毎にまとめる本など見当をつけながら移動するので、こればかりは人頼みにできない。
 
 それにしても本ってこんなに重量があったのか。よく本の重みで家の根太が抜けた、という話を聞くが、確かにこの重さ、体積、ハンパじゃない。秋ごろから古い百科事典や子供達の教科書・受験用問題集などは処分してきたが、美しいカラー写真満載のニュートン学習百科全集を処分した時は涙が出た。断捨離、断捨離とお題目みたいに言われるが、少なくとも本の断捨離は辛い。この言葉につい踊らされて(?)今まで各家庭に眠っていた貴重な文化財や資料がポンポン処分されるのは、現代の「廃仏毀釈」じゃないかしら。途中から開き直って、ナショナルジオグラフィックのバックナンバーはそのまま残す。ついでにその他の「一般的には」処分されるべき本も救助する。
 
命拾い組の中には古いレコード群もある。結婚した頃夫はクライバーンの「皇帝」がお気に入りで暇さえあれば聞いていたし、私もペルーのワルツやメキシコのわらべ歌など日本ではマイナーな盤を持っているのだが、「この際エ~イ!」と処分を一大決心。がその途端、今度は夫が未練を感じ、「これは取っておこうよ」と言い出した。
 
アルバム類も同じサバイバル組。
 
幸い隣の和室は今回改造しないので、そこに山積みにしていく。本その他ガラクタ類が部屋中山積みになった頃いよいよ床下断熱工事が始まった。

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             (和室に積みあがった本の山)

       
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                         (本移動中の夫)

 助かったのは洋間の家具移動がなくなったこと。当初は元々の床板の上にもう1枚板を貼ってもらうつもりだったが、息子のアドバイスでそれはやめて代わりに床下に断熱材を貼り付けてもらう方法に変更。そうすると薄い板を貼るより厚さ5cm位の分厚い断熱材を取り付けてもらえるので断熱効果は格段にアップ。室内の家具もそのままでいいし、上に貼る木材も不要となった。




ところが物事良いことづくめ、というわけにはいかない。床下にもぐる穴は和室中央しかない、とて、折角積み上げたガラクタをどかし、タタミを上げ、床板を上げ、の騒ぎ。出来た半畳ほどの穴から断熱材を運び降ろし、床板の下に貼る作業。連日寒さが続き、冷たい床下の作業で鈴木大工さん大変だったでしょう。ご苦労さまでした。でも嫌な顔一つせず、毎日5時過ぎまでコツコツ、コツコツ、誠心誠意やって下さり本当にありがとうございました。
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                 (分厚い断熱材と和室中央の穴)

いよいよ次は難工事の「図書室」の床貼り。ここの床はいわゆる縁甲板で丈夫なはずだったが、1カ所きしんだ部分があり、私が全面的に二重貼りを主張した元凶だった。当初夫は本と本棚の移動作業の大変さを見越して、「本棚は動かさず、従って本棚の下の床はリフォームせず」と言っていたのだが、どうせやってもらうなら、全面に、と私が強硬に主張。
 
当初からの予定通りこの縁甲板の上に檜の無垢材を貼り付けてもらう。連日少しずつその板が端からきっちり貼られていく。鈴木さんが帰った後、それを見るのが楽しみで楽しみで。貼られていくにつれて家中に真新しい檜の香が満ち、北側の暗い部屋の足元が明るく見え始める。

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(少しずつ貼られてゆく床材)

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             (こんなに見事に貼り終わった!)

 最後の工事は洋間のドアの付け替え。今までこのドア、室内に向かって開くようになっていたが、これだと開けるたびに室内の絨毯に引っかかってしまい、絨毯をめくりあげないと開かない。工務店に相談するとドア幅より廊下幅が辛うじて広いので廊下側に開閉可能、という。ラッキー! ホントはこの際引き戸にしたかったのだが、この分厚いドア材が気に入っていた夫、変更絶対NOというので、この策を採用したのだ。

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                 (ドアが外側に開いた!)

 かくて1週間に渡った「リフォーム」工事完了。期待通りの出来栄え。
 
でもまだ本は片付かないし、当初の夢、洋間を「音楽室」に、とするにはまだまだ前途多難。まず隣室からのピアノ移動のメドが立たない。それどころか、それが実現しないうちに、断熱ガラスに断熱床、冬の日差しが一杯当たって温室みたいになったこの部屋、夫がいち早く画材一切を持ち込んで占領してしまった。ウ~ン、音楽室以前にアトリエとなったか…

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          (ウ~ン やられたぁ)

 しょうがない、この部屋、ピアノが入ったら音楽と美術の「アートルーム」と命名するか…
 
 この地に住んで40余年、あと何年生きられるかわからないけど、今後も生きてる限り、この家に住んでる限り、例え明日死ぬか老人ホームに行くとしても、最後のその日まで、不便な箇所はリフォームし、快適な(リ)ホームとして暮らしたいものだ。


横須賀三浦按針研究サークルの会合にお招ばれした!

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 219日(日)東京湾をぐるりと周るJR内房線に乗って三浦半島突端の横須賀に出かけた。強風の吹き荒れた日だったが、如月「光の春」の日差しはもうかなり強く、殊に房総半島も三浦半島も関東地方では春の訪れはどこよりも早く、暖かい恵まれた一日だった。
 
 同行して頂いたのは御宿の「国際交流協会」会長のツチヤタケヤ氏。御宿関係の私のブログにはほとんど毎回登場して頂く重要なキャラクターだ。
 
 昨年9月メキシコ人学生ミゲルとその母ロリータさんを御宿のメキシコ塔に案内した時、偶然お目にかかったのが横須賀市東逸見町の「三浦按針研究会」ご一行だった。(私のブログ916日号参照)

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                   (あの時の写真)

 その時ご一行の一人吉江宏氏の「ミステリアスな英国人、三浦按針の話」というご本を頂いた。それが縁での交流が始まり、今回同研究会会長のタグチヨシアキ様からの「集い」へのお誘いを受けたわけだ。
 
 五井駅から2時間余、初めての横須賀駅。改札口でタグチ氏と会のメンバーが迎えて下さる。
 
 「集いの会」会場はそのタグチ邸。広いお部屋を3室ぶち抜いてざっと40名位の参加者。実は伺うまでは「按針会」だけの集いか、それにしては人数も多いし、とよくわからなかったが、司会のタグチ氏が参加者一人一人紹介して下さるうちに、集まった方々の出自?が少しずつ判明していった。

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             (タグチ氏、見るからにお世話好き、取りまとめ役にぴったり)

まず「按針研究会」。これによく似た「ガリバープロジェクト」(名高いガリバー旅行記のガリバーのモデルは三浦按針ことウイリアム・アダムスではないか、ということから命名された?会)。次に「コロボックルの会」(これは今月9日に亡くなった横須賀出身の童話作家、佐藤さとる氏を顕彰し、氏の代表作コロボックル物語シリーズから取った名前)、それに「逸見周辺の同人による俳句同好会」の同人達。それに私達「御宿組」。
 
その他元気のいい女性町内会長さん、市議会議員、果ては横須賀市長の吉田雄人氏(若い!)など各界の方々が参集。中には「何だかわからないけど、タグチさんからちょっとおいでよ、と声をかけられたんで、」と頭かきかき挨拶する人も。道理で人が多いわけだ。
 
とにかくどの会もどの方もタグチ氏やタグチ夫人のお人柄に惹きつけられて、集まった、という感じで和気あいあい。

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           (広いお部屋を3つもぶちぬいての大勢の参加者とごちそう!)

中でも今日のとびきりVIPは最近「 AnjinThe Life & Times of Samurai, WilliamAdams」をイギリスで上梓されたHiromi.T. Rogersさんと平戸の松浦藩41代藩主の松浦章・泰子ご夫妻。
 
 Hiromi.T. Rogersさん(17世紀の日欧文学研究博士、イギリス人の夫とイギリス、デボン州在住)がまず挨拶。今回の本を出版するにあたってのイギリスの出版事情をレクチャー。イギリスでは歴史資料・歴史研究書の出版と、歴史を舞台にした小説とでは厳然と出版社が違っていて、前者は大学や図書館、研究者向けの硬い固~い内容でないと門前払い。後者は活劇やサスペンス、恋愛を売り物にしたエンターテインメント小説向け。両者は互いに相手の分野を蔑視?している。日本の司馬遼太郎や塩野七生作品のような、歴史をかみ砕いて多少のフィクションを交え、一般読者に歴史への興味をかきたててくれる「歴史小説」というジャンルは存在しないし、存在を認めようともしないのだそうだ。

 例えばヒロミさんがウイリアム・アダムスが妻となるメアリー・ハインに求愛する場所を浜辺に設定しただけで、「そんなことは史実にない」とはねつけられる始末。それでもようやく出版社を探して上梓、アメリカのアマゾンのベストセラー100冊に入った。それをイギリスで発表しても、フン、と取り合ってくれなかった由。
 
 それが、イギリスの伝統、ヨーロッパの出版界の伝統かなぁ、と感嘆。そういう困難に立ち向かって出版にこぎつけたDr Hiromiは凄い! 偉い!

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                  (ヒロミ・ロジャーズさん)

 松浦章夫妻は世が世なら、私など何部屋も下座に座って謁を賜るほどのお殿様・奥方様だが、実は大変気さくな方。数年前の平戸旅行を思い出し、復元されたオランダ商館、按針墓地、スペイン船着岸地の話などすると、是非また来て下さい、とお誘い下さる。普段は江の島近郊にお住まいだが、平戸のご先祖さまが創案された鎮信流という茶道の御家元で大きな茶会を主宰されるたび、平戸へお帰りになるという。
 
 お話ししているうち偶然章氏と私がほぼ同時代にNHK国際局にいたことが判明。共通の知人・同僚の話でも盛り上がり、にわかに「お殿様」が身近に感じられたことだった。
 
 夫人の泰子さまも気さくな方で、按針会のメンバーからは「奥方、奥方」と慕われておられる。松浦家に伝わる南蛮菓子の秘伝レシピ「百菓之図」に倣い、昨年「東西百菓之図」としてアレンジ版を出版された。菓子本体ばかりでなく菓子器、茶器なども掲載。「婦人画報」(今年3月号)で特集紹介されているとのこと。平戸名物のカスドースのアレンジ版などあるかしら?
 
 遅れて参加したもう一人のVIP。映画監督の錦織良成氏。去年の第40回モントリオール世界映画祭で最優秀芸術賞を受賞し、今年5月頃日本で公開される「たたら侍」の脚本、監督担当。過去にも監督の出身地島根県出雲地方を舞台にした映画を数多く発表しているが、この作品も代々出雲の玉鋼製造の家に生まれた若者、伍介が侍に憧れ信長、秀吉の下級武士に取り立てられる、というストーリー。私はたまたま現在朝日新聞に連載されているこの小説を面白く読んでいるし、監督が私の隣席に着座されたので、これ幸いと親しく話をすることができた。現在は横須賀市在住で、タグチ氏とも昵懇の間柄。ここでもタグチ氏のお顔の広さ、人脈の豊富さに圧倒される。

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         (左からツチヤ氏、私、松浦夫人、松浦氏、ロジャーズさん、錦織監督)

 それらの人々とタグチ夫人はじめ女性陣心尽くしの豪勢なお料理に舌つづみを打ち、様々なジャンルの方々と談論風発、さすがに日永の2月の太陽も傾き始めた。按針会の有力メンバー吉江宏先生のご案内で「按針塚」見学。
 
 標高133mの小高い丘のてっぺんに二基の供養塔。江戸時代からの宝篋印塔で、平戸の按針墓は按針((イギリス人ウイリアム・アダムス)とイギリスに残してきた妻メアリーとの墓だったが、ここでは按針と日本人妻ゆきを供養している。この地に供養塔が建てられたのは、もちろんここがアダムスが家康から拝領した領地三浦郡逸見町の地でもあるが、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家の御厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針の遺言に従ったもの、とのこと。
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                 (按針とゆきの供養塔)

 その表向きの遺言の陰に、思いもかけず異郷の地で生を終えたアダムスの、はるか故郷イギリスの海に続く江戸湾を見下ろすこの地に葬られることは、生前かなわなかった帰国の夢をせめて死後かなえたいという彼の密かな願望も混じっていたのではないだろうか。
 
 それにしても400年前の大航海時代、地球の裏側のイギリスから、もう一つ裏側のメキシコから、奇しくも1564年という同じ年に生まれたアダムスと御宿に漂着したロドリゴ・デ・ビベロ、二人の海の男が1609年この日本で邂逅するなんて! そしてその二人を顕彰する横須賀の人々と平戸の人々、御宿の人々が交流するなんて、歴史とはなんという奇跡を生むものなのだろう。

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(安針塚をバックに御宿のツチヤタケヤ氏と按針会の吉江宏先生)


御宿へアカプルコからのお客様

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 例年になく寒い雨模様の315日(水)早朝、メキシコの熱帯観光地アカプルコから17名の友好親善団が成田空港に到着。御宿町役場の職員と御宿国際交流会&御宿アミーゴ会の会員が出迎え、御宿へ直行。
 
 アカプルコと言えば、16世紀スペイン人によって開港、スペイン=メキシコ=東洋貿易の玄関口となり、今は有数の観光地として世界的な名声を得ている大港町だ。日本とは歴史的交流という点でも特別な意味を持っている。1613年仙台は月の浦から出港した支倉常長一行がまず到着したのがこの港だし、私の研究しているスペイン系メキシコ貴族で1609年御宿に漂着したロドリゴ・デ・ビベロが任地マニラに向け出港したのもこの港、日本で家康に面会後、ウイリアム・アダムス造船になるブエナ・ベントゥーラ号で帰港したのもこの港だ。
 
 その縁でアカプルコと仙台、御宿は古くから姉妹都市関係にあり、個人的にも私達夫婦がメキシコを訪問した1980年、当時の御宿町長の高梨氏にアカプルコ市長への手土産を託された、という経験がある。
 
 午前11時から御宿町庁舎での歓迎式典。これには御宿在住のヴァイオリニストで日本=メキシコ友好の懸け橋となっている黒沼ユリ子さんがゲスト兼通訳として出席。式典を盛り上げた由。
 
式典と昼食後、一行は御宿の文化施設「月の砂漠記念館」、ユリ子さんが昨秋開館した「日本=メキシコ友好の家」見学、続いてドン・ロドリゴの漂着した岩和田海岸、日本=メキシコ=スペイン友好記念塔の立つメキシコ公園、ロドリゴの乗ってきた船の部材を母屋の梁に使用している酒造会社「岩の井」見学・試飲会、と盛りだくさんのスケジュールを元気いっぱいこなし、夕方5時半から180度海を見渡すホテル「サヤンテラス」のレストランでの歓迎レセプションに出席した。
 
私は御宿国際交流会&御宿アミーゴ会会長の土屋武彌氏に依頼され、通訳としてパーティに出席した。(ロドリゴ漂着を起点に日本=メキシコ友好親善のメッカとして自他共に認め、1978年には当時のロペス・ポルティッリョ・メキシコ国大統領の訪問を皮切りに、多くのメキシコ人が訪れ、また今後はスペインとの友好親善にも乗り出そうという御宿町が、どうしてスペイン語のエキスパートを養成、もしくは役場職員として採用していないのか、不思議だ)
 
日本側出席者は30余名。石田御宿町長、町議会議長と議員達、それに土屋氏率いる国際交流会会員及び有志達。
 
5時半開宴。まず町長と議長の歓迎挨拶。石田町長は、すでに御宿とアカプルコは姉妹都市提携を結んではいるが、以前はそれほど頻繁な交流をしてこなかった、が今回の皆さんの御宿訪問を契機に今後は大いに交流を深めようではないか、と将来の両都市の友好促進の意義を強調した。

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      (太平洋を一望する会場で日本=メキシコ国旗を背に挨拶する石田御宿町長)

一方大地町会議長は、今日の悪天候をロドリゴ漂着時の悪天候になぞらえ、むしろ往時の追体験ができたのではありませんか、と。また本日のロドリゴの足跡を辿っての御宿各所の印象はどうであったか、と訪客側に話を振った。
 

それに応えて一行代表の元アカプルコ市長LuisUruñuelaFey氏の答礼挨拶。氏は大柄で堂々たる、いかにも世界有数の観光地の首長だった、という貫禄を有しながらも、今は要職を離れて悠々自適生活を送っています、みたいな柔和でたっぷりしたお人柄。


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          (礼挨拶する元アカプルコ市長Luis Uruñuela Fey氏)

挨拶の中身は、案内された御宿各地の美しさに感動したのはもとより、御宿の人々の親愛なもてなし、温かな人情にはさらに感激した。太平洋を挟んだ隣人同士である自分達、御宿とアカプルコはこれからもっともっと深い絆を結ぼうではないか、と。
 
乾杯の音頭は土屋氏。日本語の挨拶の後グラスを高く掲げてのスペイン語の「¡Salud!(乾杯!)」でホッと座のセレモニー的緊張がゆるむ。
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             (和やかな会場風景)

この夜のバイキング料理は同ホテルシェフの心尽くしのメキシコ料理。トウモロコシ粉のトルティージャ、牛肉入りのスープ、アボカドサラダ…、それらを嬉しそうにお皿に山盛りにしてテーブルに戻ったルイス元市長、ちゃんとナイフとフォークが用意されているのに、割りばしで取り組んでいらっしゃる。しかもサウスポー。外国人が箸で和食をぶきっちょそうに食べるのならよく見る光景だけど、メキシコ人がメキシコ料理をお箸で! (写真を撮りそこなったのが残念。絶好のショットになったのに…)
 
夫人のBlanca Villalbaさんもスピーチ。彼女は今回の来訪を機に数枚の精緻な刺しゅう入り民族衣装と50個ものかわいいカラフルな壁飾りを御宿に贈ってくれた。とても気さくな陽気なお人柄。これも刺しゅう入りの民族衣装が大柄で堂々とした夫人によ~く似合っている。

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          (御宿町長にお土産の目録を渡すBlanca夫人。手前は夫のLuis氏)

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(精緻で渋い民族衣装のBlanca夫人)

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(お土産の壁飾り)

皆さん昨夜から15時間に及ぶ空の長旅の後、御宿での一連の見学ツアーとセレモニー、その上アカプルコとは30度近い気温差(出発日あちらは37度、御宿8度)、15時間の時差、と相当なハードスケジュールだったにも関わらず、よく召し上がり、よくしゃべり、ちっとも疲れを感じさせない。まだまだしゃべれるぞー、まだまだ食べるぞー。
 
で、7時半のお開き時間到来がいかにも残念そう。
 
閉会は御宿の教育長氏の「一本締め」。私も声を張り上げる。

“Ahora viene la hora de terminar. ¡Vamos a saludarnos de clausura con unamanera auténtica japonesa “一本締め!  osea una sola palmada!   ¡Levántense por favor con los brazos y manos abiertosarriba!”

全員立ち上がって両腕、両手を大きく開き、
「お手を拝借、よ~ぉ、ポン!」の合図に、全員両掌が真っ赤になるほど大きく打ち合わせる。続いて拍手、握手、笑い声。
 
 首尾よく一本締めでお開きになったのに、まだまだ物足りないご一同、あっちでしゃべり、こっちで記念撮影し… 今夜はここで一泊、明朝10時の特急で東京駅→仙台、とこれからも強行スケジュールが待っているというのに、この元気さ。元気はいいけど、大丈夫かなぁ、メキシコ流ルーズさでタカをくくっていても、ここはニッポン、電車は待ってはくれないんだけど…
 
ともあれ、2週間の日本滞在、この異常な寒さも滞在中には和らいで、お帰りの頃にはウラウラ陽気に桜の花もあちこちでほころんでいるでしょう。
 
¡Que tengan buen viaje!

度肝を抜かれた草間彌生展

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 東京六本木の国立新美術館開館10周年記念として“超”前衛芸術家、草間彌生の「わが永遠の魂」展が開催されている。

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                (草間彌生展ポスター)

 以前から草間作品に傾倒していた私達夫婦、心躍らせて入場。
 
 いや、入場する前から美術館周辺は草間カラー一色。広い敷地の立木という立木に草間のシンボルマークの赤い水玉模様の布が巻きつき、ベンチには彼女のポスター。

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                                   (「木に登った水玉」)

 平日昼間というのに当日券売り場は蜿々長蛇の列。しかも観客の層がフツーの美術展の層とは格段に違う。若いカップル、子供連れ、学生グループ、そしてたくさんの外国人。
 
 まず薄暗い第1室。草間が初めて富士山を描いた作品。「生命は限りもなく、宇宙に燃え上がって行く時」。横長の画面いっぱいに茶色い富士山。雪を頂いた頂上の火口は赤い花。その花に微笑みかけるのはオレンジ色の太陽。青と白の細かい水玉模様の版画摺りみたいな空。北斎の富嶽とも違う、片岡珠子が献花する富士山とも違う、勿論伝統的な日本画の富士山とも違う、「草間の冨士」だ。

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                   (草間彌生と富士山)

 その狭い空間を出ると、ワァー。眩い照明の下、大展示場(天井高5m、奥行き50m)の壁面一杯に並ぶ「わが永遠の魂」連作。500点余から132点を厳選して展示、というが、まるで「空白恐怖症」みたいに3方の壁面のてっぺんから床面まで縦横194x194m,162x162m2種類のパネルがぎっしり。それも2009年から制作を開始、88歳の今日に至るまで描き続けているから、新鮮そのもの、出来立てほやほやの作品ばっかり。

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                    (会場風景)

 しかも床には3カ所に巨大なオブジェ。ピンク、黄色、赤、青、緑、など幼稚園のパステルカラーに塗られたすべり台やブランコを思わせる、あるいは熱帯の池に浮かぶ食虫植物を連想させる、奔放な色使いの花々。

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       (奔放な色使いの「真夜中に咲く花」「明日咲く花」)

 連作画題は、どうやら「生命の根源」。黄色い細胞液に浮かぶミトコンドリア、絡み合う血管、泳ぐ精子、ひしめく細胞群、血管内を流れる白血球… まるで強烈な陽光か眩い電光の直射を受けて思わず閉じた瞼の裏の7色の残像。

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             (壁面を上から下まで埋め尽くす作品群)

 本人によれば、テーマといい、構図といい、色遣いといい、何らの逡巡も技巧も要しない、みんな本人の脳裏、眼底に浮かぶ像を、そのまま映した物ばかり、という。
 
 それだからか、ここには明白な日本の伝統文化のカケラも見えない。ワビもない、サビもない。面相筆による繊細な線描もない。
 
でもこれを見ているうちに昨年3月六本木の「森美術館」で見た、村上隆「五百羅漢図展」の大画面、大オブジェをゆくりなく思い起こした。大画面に乱舞する金、銀、赤、黄、黒、紫、など華麗な色彩、奔放にデフォルメされた五百羅漢や達磨、果ては髑髏など、これまでの繊細な日本画とかけ離れたスケールの作品群だった。
 
また「奇想の画家」といわれる江戸時代中期の画家、伊藤若冲の動植綵絵の群鶏や鳳凰の鮮烈な色彩。
 
そう言えば狩野永徳のあの力強い「檜図」。大画面を横切る檜の幹。
 
「芸術は爆発だ!」の岡本太郎の強烈な色彩作品群… 
 
こう考えてみると、草間彌生作品も決して古来からの日本文化とかけ離れた根無し草ではない。
 
みんな縄文の火焔土器文化に源流を持つ、地下のマグマのようなエネルギーに満ちた、日本人独特の強烈なDNAの発露だ。みんな脈々と太いパイプでつながっているのだ。DNAの鎖の一環として日本文化の1大要素となっているのだ。あにワビ、サビ、渋み、陰翳礼讃、茶室文化ばかりが日本の伝統文化ではないのだ。
 
そう思うと会場を走り回る子供達の、リュックを背負った若者グループの、突拍子もない色彩・デザインのTシャツ、パンツ、リュック。ビジネススーツから解放された定年世代の青色ジーパンとバンダナなど、老いも若きもポップでカジュアルな服装は縄文人の、先達芸術家の、爆発するエネルギーの継承そのものだ。
 
この会場内に限り撮影OKなので、みんなスマフォやタブレットをかざして作品撮影。自撮り、仲間とのツーショット。
 
 かく言う私も今日は大好きなペルーのカーディガンを羽織ってきた。見て、見て! 草間作品とのコラボ、合うでしょ?

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             (どう? この色、このデザイン)

 でもこの女性のいでたちには「負け~っ」! 黒い帽子といい、黒地に赤い水玉模様の上着といい、グレーのスカートといい、上から下まで草間カラー。その上背中のこのリュック! 

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大広間の大カオスを抜けると「生命の輝きに満ちて」という鏡の間。暗闇の中に無数のライトが点滅する真っ只中を歩くと、自分が星になって宇宙空間をさまよっているようだ。
 
 Kusama  in  the  20th  centuryと銘打った初期の作品群もある。193910歳の時から1957年までの出身地松本時代の、71年までのニューヨーク苦闘時代の作品。でも、例えば1951年の[the  Heart]という作品にはすでに現在の草間作品の原型がある。色こそ違え、2014年作で今回の第1室を飾った「生命は限りもなく、宇宙に燃え上がって行く時」がそれだ。
 
 ニューヨークっ子の度肝を抜いたという「the  Man」や「Macaroni  Coat」のオブジェは、今だってドッキリだ。
 
 会場に収容しきれない高さ4.5mの巨大な黄色いカボチャは屋外に展示。抱きついたり、記念撮影する人影が絶えない。ミュージアムショップも長蛇の列だ。
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                  (屋外展示のカボチャ)

この人気、それを過去の栄光とせず、88歳の現在も草間は何かに追い立てられているかのように、創作の道を走り続け、しかもその道の幅は日毎に広がり、深くなってゆく。
 
 ブランド企業と組んでのバッグ類のデザイン、お菓子の包装紙、ドレスパターン、家具装飾、高速バスの車体塗装など草間作品のシンボルである水玉やカボチャや網目が、街中に、田園に、瀬戸内海に、とめどもなく反復し無限に増殖してゆく。
 
そのビッグバンの始原点に赤髪のカツラ、黒地に赤い水玉ドレスをまとった草間が、大きな目を見開いて増殖の行方を凝視している。そして、あの独特の語り口で、ぶっきらぼうに呟いている。
 
「わが永遠の魂」は、もっと遠くに、もっと拡大し、宇宙の果てまで拡散し、その一方身体の内奥のもっと深く、もっとミクロ世界に、もっとナノ世界にも沈潜するのよ。いわば神の領域まで、そして悪魔の領域まで、それを私は究めるの。
 

 それまでは「我ひとり逝く」(1994年)ようなことがあっても、「天上よりの啓示」(1989年)を受けて、時には黄色いカボチャの点になり、赤い水玉になり、「一億光年の星屑」(1989年)となってよみがえってみせるわ。(「よみがえる魂」(1995年))



岩田亮子さんの活動報告会

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   カンボジアの孤児たちを支援する岩田亮子さんの活動報告会に1112日(土)行ってきた。
 
 亮子さんは私のいとこの長女、カンボジアの片田舎(首都プノンペンから北西300km、第2の都市バッタンバンからさらに10kmのタコック村)で8年前から、内戦で両親を亡くした戦災孤児や、DV被害児・エイズ孤児などの保護・自立支援に当たっている。

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       (ノリア孤児院のあるタコック村遠景…(亮子さんの絵葉書より)

 彼女のその活動については以前このブログで3年前(20131016日「岸本静江ブログ「身内にこんな立派な人が! (岩田亮子ちゃんについて」」で検索してください)に紹介したが、年1回の活動報告会に出席できたのは今回が初めて。
 
会場は東京中央区大伝馬町の沖縄料理の居酒屋「バール・ラジマル」。報告会は15:0018:00。懇親会18:3020:30。開会前から狭い会場は支援者で満員。亮子さんが津田塾大学卒ということで、同大生の支援組織「岩田亮子を支援するボランティアの会」の会員達の甲斐々々しい会場設営、受付、司会進行ぶりで報告会は滑らかに、和やかに進行した。
 

壁のスクリーンに次々映る「ノリア孤児院 Hopeof Children」(通称HOP)の子供達の生活振り。みんな元気いっぱい。生き生きした表情。畑や田んぼで稲や野菜を栽培し、収穫物で料理をし、英語を学び、将来の夢に向かって一心に学ぶ子供達。

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            (ノリア孤児院の元気な子供達。同上の絵葉書より)

でも最初は「こんな風でした」と亮子さん。油の浮いたドロドロの溜池で食器を洗い、屋根も床もない屋外での生活、食物も不十分、ボロボロの衣服を着た子供達の8年前の姿。
 
まず安全な飲み水の確保、屋根と床のある家とその敷地の確保、作物を栽培できる土地と灌漑水の確保。種や苗の獲得、栽培法の習得…… 気の遠くなるようなインフラ整備から、亮子さんとその活躍の原動力となったムニ師(カンボジア人僧侶で、ノリア孤児院創設者)の活動が始まった。
 
難局に直面する度に、体当たりで駆け回る亮子さん(こんなに細い体のどこにこんなエネルギーがあるんだろう)の熱意と、仏教国における僧侶ムニ師の実績と信用で次々難問解決、支援者増大、という。
 
「水が無い!」と水を求めて駆け回ると、熱意に感動した支援者が現れ水道を引いてくれた。ベテランに笑われながらも季節外れの時期に稲を植えると干ばつ!でもみんなで雨乞いすると、奇跡の雨が降った! 「家がない」と泣きつくとイギリス人夫妻の資金とイタリア人の設計で2軒の寄宿舎が建った。自分達の田畑で収穫できた余剰農産物を外国人向けカフェで出店しようとすると、意気に感じた店舗オーナーが店を譲ってくれた。その設計には日本人の建築士が、パンの製造には同じく日本人製パン屋さんが指導…etc.etc.
 
物柔らかでユーモアあふれる亮子さんの語り口で3時間の長丁場もあっという間。

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            (映像を見ながら説明する亮子さん)

会場には津田塾大生以外にも講演の中で登場した支援者の方々が大勢詰め掛けていらした。この「ラヂマル」のオーナーもその一人だし、パンの製法伝授者やカフェ設計の建築家、バイオマスリファイナリーの専門家岩本正和先生、国際協力NGO「風の会」の方々も出席していて、亮子さんが感謝の言葉と共に次々紹介すると、満場拍手、称賛の声。

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       (駆けつけてくれた支援者を紹介する亮子さん)

講演後の懇親会で同卓だった方はわざわざ那須塩原から駆けつけた4年来の支援者だとか。
 
私も自分一人で参加するより「こんな誇るべき女性が身内にいるのだし、私のような高齢世代でなく、息子達、孫達の世代にこそ応援して欲しい」と、事前に一族に声をかけたら、3名が応じてくれた。そして私の思惑通り、参加した彼等、亮子さん支援に何かしたい、と。
 
8年に及ぶ亮子さんとムニ師、支援者のお蔭で一応衣食住・教育のメドがたったこの孤児院の子供達。彼等の将来の課題は「自立」。カンボジアは内戦終結したとはいえ、まだまだ発展途上国だ。物資も資源も技術も何もかも不足している。とりわけ成人した子供達の働き口が足りない。この子達が自立できるような技術を身につけさせたい。それが亮子さんの目下の希望だ。
 
レストランのシェフになりたい子には調理技術を、電気屋になりたい子には電化製品の組み立て・修理技術を、という具合。それも日本のような先進国に連れて来て習得させたい。何しろ内戦でインテリ階級や高度技術を持つ専門家が虐殺されてしまった国だ。早い話、小学校で体育時「整列」させるのだけで1時間もかかった、という。そんな訓練を受けたことがなかったからだ。
 
今回亮子さんは孤児院の卒業生2人を連れて帰国、福岡市内の「居酒屋」のオーナーのご好意で住み込み修業させているという。他にも電化製品を扱う工場や電気屋さんなど彼らを受け入れ、教育してくれるボランティアを募集中だ。
 
講演の締めくくりに言った亮子さんの「やろうと思えば、何でもできる」は、実際に「困難にぶつかっても、へこたれず、ぶつかれば必ず応援者が現れ、目的が実現できる」ことを実証した人の言葉だけにずしりと胸に響く言葉だった。
 
慌ただしい滞在を終えて16日日本を発った亮子さん。これからもこの言葉を胸にカンボジアの子供達のために邁進し続けていくだろう。
 
がんばれ。後に続く人、支援する人が続々生まれることを祈っています。
 
いえ、祈るばかりではいけない。私もなにかできることで協力しなければ。
 
とりあえず、現地を見ることから始めようかしらん。世界遺産アンコールワット遺跡も近いそうだし、ついでに…(コラコラ)





フェスティバル・デ・ラティノ・ロコ Festival de Latino Loco

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友人でラティン歌手のナタリーさんと「マリアッチ・サムライ」のリーダー、サム・モレーノさんに誘われて第1回フェスティバル・デ・ラティノ・ロコに行って来た。
 
1118日(金)午後6:309:30 新宿の全労済ホール「スペース・ゼロ」

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一時活動を休止した「日本ラティンアメリカ音楽振興会」(会長KEN・バルガス氏、副会長浜村美智子さん)をサム・モレーノさんとナタリーさんが「ラティノ・ロコ Latino  Loco」と改名・復活、その復活記念として第1回フェスティバルを開催したもの。
 
多彩なプログラムにまず驚く。マリアッチあり、歌あり、ギター・ソロあり、インディアン・ハープ(アルパ)あり、女性サルサ・グループあり、要するにラティン・ミュージックと名のつくものは全部(Hay de todo)あり、ということ。
 
しょっぱなはそのサムさん率いる「マリアッチ・サムライ」。トランペット2、ヴァイオリン3、ヴィオエラ1、ギター1、ギタロン1の8名がマリアッチ制服ともいえるチャッロ衣装で登場。広い会場も割れんばかりに奏で上げる「La negra(ラ・ネグラ)」「El Mariachi  Samurai  ha  llegado(マリアッチ・サムライがやってきた)」「La Bikina(ラ・ビキナ)」。

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          (マリアッチ・サムライ  中央のギターがサム・モレーノ)

次に登場のジュンコさんはベテランらしくしっとりと「La distancia(隔たり)」と「Cenizas(私の愛の燃えがら)」。
 
若手のSawako Katalynaはメキシコ育ち、アメリカのマサチューセッツ工科大学卒というリケジョ。日本語・英語・スペイン語で作詞作曲を手掛けるシンガーソングライターでもあり将来が楽しみ。「El Rey(俺は王様)」とお馴染みの「Sabor a mí(サボール・ア・ミ)」
 
次はアルパ(インディアン・ハープ)。ベテランの志賀昭裕と可愛らしい坂本鈴のデュオ。志賀作曲の「熱帯雨林」とサルサ風にアレンジした「コーヒー・ルンバ」。あの物憂い感じの曲がこんなにも変化するんだ!

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                   (アルパのデュオ)

第1部のトリはトリオ・ロス・ペペスのお馴染みの3曲。「La Malagueña(ラ・マラゲーニャ)」「Te  quiero dijiste(君を愛して)」「Alma  Llanera(平原の魂)」。「Te  quiero  dijiste 」はナタリーさんの歌とダンスが色どりを添える。

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               (ナタリーとトリオ・ロス・ペペス)

第1部が終わり休憩になると、往年のラティンミュージックファンが、久しぶりに若かりし頃熱中した音楽に触れて、また同好の人々と語らえて、満足気に微笑みを会話を交わす。
 
客席最前列にナタリーさんの父上の杉山一夫氏。長年日本郵船の船員として世界を周航、革命前のキューバでラティン音楽の魅力に目覚め、2014,15年ナタリーさんとキューバ再訪。帰国後上述の「日本ラティンアメリカ音楽振興会」を応援しようと、「マリネロ(船員)基金」を創設、今回の第1回フェスティバル開催に漕ぎつけた陰の功労者だ。昨秋にはウチの「ギャラリー鶴舞窯」にも何度か足を運んで下さった。我が市原市牛久出身。
 

第2部はIrvig Kojiのギターソロから始まった。父のレキントギター奏者 Juan Cirilo  Cabadillaとラティン・ボーカリストTakakoの影響で幼少から音楽浸けの環境。若さ溢れるエネルギィッシュな演奏と当意即妙な語りで満場を魅了。「El cuarto de Tula(トゥーラの部屋)」と「Potpourri Sudamericano(南米ギターメドレー)」。

 

その彼の伴奏でNinaが歌うボサノバの「Samba em  Prelúdio(プレリュードのサンバ)」「Potpourri da  Música  Brasileiro(ブラジルメドレー)」。ブラジルの曲は他のラ米諸国の曲と一味違って、Saudade(哀愁)に満ちて聞こえる。まさにポルトガルのファドの伝統だ。

 
次は元気いっぱい、今日の司会者でもあるTakakoIrvig Kojiの母というので、彼のリードで満場からの呼び声「おか~ん!」で登場。「Llorando se fue(泣きながら)」「El Cumbanchero(エル・クンバンチェロ)」。

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            (Takako と Irvig Koji)

その元気をさらに10倍にした女性だけのサルサバンド「ソン・レイナス」登場。「La Bilirrubina(ラ・ビリルビーナ)」「Cu cu rru cucu Paloma(ククルククパローマ)」。ボーカル松村いづみに率いられた9人のレイナス(reinas 女王達)。まさに女王集団。女王達の命令一下、満場起立させられ、足踏み、手拍子、果ては踊りも強制され(?)全員床を踏み鳴らしての大狂乱。 トランペットは高らかに響き渡り、パーカッションは床に轟き、大音響、まさにラティン熱狂集団、Locos, Locos,  Latino Locoの体現。

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                              (Son Reinas 10人の女王様たち)

その熱気の中、再びナタリー登場。「マリネロ基金」とその創設者の父上に敬意を表して「日本郵船」船旗の二本線をデザインした衣装でその曲名も美空ひばりの「港町13番地」。

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                      (胸に日本郵船の船旗の二本線をあしらって踊るナタリー)

フィナーレに向けてトリオ・ロス・ペペスも再登場。「Vereda Tropical(南国の小道)」

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           (ベテラン、トリオ・ロス・ぺぺス)

そしてトリは一世を風靡したカリプソの女王、浜村美智子。「South of  Border(国境の南)」と十八番の「Banana Boat(バナナボート)」。あの「デーオォ~、デデデオォ~」を手話を交えて貫禄十分に歌い上げる。声量たっぷり。赤い花飾りハットとサブリナパンツ。最近「徹子の部屋」にも出演。まだまだ現役だ。昨年我が「ギャラリー鶴舞窯」に見えた時のさっそうたる姿を思い出す。

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              (大御所 浜村美智子のバナナボート)

いよいよフィナーレ。オールスター総出演。全員合唱、全員演奏、全員総踊り、聴衆総立ちでLatino  Locoのテーマ曲「El  Mariachi  Loco(マリアッチ・ロコ)」。

Latino Loco quiere bailar, quiere bailarLatino Loco … 

 (踊るよ、踊る、ラティノ・ロコ…)
 
そしてお馴染み「Cielito Lindo(シエリト・リンド)」。

  ♬ Ay, ay, ay, Canta y no llores, porquecantando se alegran, cielito

        lindo, los corazones! 

アィ、アィ、アィ! 泣かずに歌おう、歌えば心が、心が晴れるよ!

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                    (華やかなフィナーレ)
 

御宿「島田正治デー」・「サム・モレーノデー」

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 1123日(水)の祝日、今年何回目かの御宿訪問。ただ今回はその日でなければと、というスペシャル・デー。
 
 まず「月の砂漠記念館」での「島田正治墨画展」の最終日。9月から始まった会期中も、ご高齢と川崎在住という遠距離から、なかなか御宿まで足を運ばれなかった島田先生も、最終日とておみえになる、との事。この記念館での開催を紹介した私達としては是非とも行かねばならない日だったから。
 
 もう一つの理由はその島田先生に前回のブログで紹介したラティノ・ロコ事務局長のサム・モレーノさんを引き合わせること。
 
 さらにヴァイオリニストの黒沼ユリ子・俊子さんご姉妹にやはりサムさんを紹介すること。メキシコ=日本音楽友好に欠かせないお二人を、日墨友好のメッカ御宿で引き合わせるのはこの機をおいて他に見当たらない。(もっともユリ子さんはずっと以前サムのお店にいらしたことがあるそうだった)
 
 当日はあいにくの曇天で時々パラパラと雨が降ってくる、いつもは暖かい御宿にしては例外的に寒い寒い日だった。これでは。俊子さんと御宿ネットワークの人たち主催の「芋煮会」開催しているかしら?と危ぶみながら会場到着。
 
 でも開催していた! もうすぐ店じまいという時刻に滑り込みセーフ。アツアツの芋煮汁を頂きながらサム&ルミ夫妻とサムのレストラン「エル・リンコン・デ・サム」のボーイ兼ダンサーのメキシコ青年を黒沼姉妹に紹介。サムさん、面白がって同時開催のバザーで電動バリカン(600円)を買ったけど、後で何にお使いになったやら。

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                     (芋煮会会場。熱々の芋煮汁で身も心もホット。左端サムさんとバリカン?)

 次いで3人を黒沼さんの「ヴァイオリンの家」に案内。当日は3階のミニコンサート・ホールでユリ子さんと2人の弦楽器奏者によるコンサート開催、というので12階の談話室とヴァイオリン人形コレクションだけ拝見。おいしいメキシカン・コーヒーを頂いたり、展示の精緻な民族衣装に感心したり、また国際交流基金の元メキシコ駐在員ご一家と知り合ったり… これだから御宿訪問はいつも楽しい。

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            (ヴァイオリンの家1階談話室 壁面の民族衣装)
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(2階の渡部高揚ヴァイオリン人形コレクション)
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(3階のミニコンサートホールで、ユリ子さんと。前回訪問時の写真)

 「ヴァイオリンの家」を出て、後から駆けつけたサムさんの「マリアッチ・サムライ」の3人の美女ヴァイオリニストやフィルムカメラにこだわる成田在住の若者などを案内してメキシコ塔へ。
 
 サムさんご夫妻は7年前この塔のある岬突端の「日墨友好記念『抱擁』像」(Estatua de Abrazo)除幕式に出席したとの事だったが(台座に彼の名も)、他の人は初めてで、御宿の、メキシコとの友好上地理的、歴史的重要性を改めて認識した模様。

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                (メキシコ塔をバックに、抱擁像を囲んで)

 岬を下ってロドリゴ漂着の浜へ。今日はたださえあの狭い浜辺が上げ潮で崖間際まで波頭が打ち寄せ、400年前のロドリゴ漂着時の荒波打ち寄せる光景が彷彿としてくる。漂着は930日というが、それは日本の旧暦での話、現在の暦では10月末か11月初頭。難破船から泳いで脱出してきた人々にとっては、今日のように身も凍えるような寒さだったに違いない。
 
 いよいよ「月の砂漠記念館」へ。会場で島田先生待ちかねていらした。メキシコのポンチョがよくお似合い。今日は夫人の体調思わしくなく、そのかわり次女のハルヒさんと友人のヤマモト夫妻の付き添い。ヤマモト夫人はとても優雅なメキシコ人。
 
とかくメキシコを描く画家がメキシコ独特の強烈な色彩に影響されて、やたら多色、過剰な原色を用い、あるいは古代メキシコ絵画・壁画の模倣的作品を表出しがちな中、墨一色で勝負してきた島田作品が、むしろ豊かな色彩、堅固な石造物を実感させるのは、作家の力量と共に、周囲に影響されないという作家個人の強固な自我があるからだろう。
 
「ボクは誰に教わったわけでもなく、誰からの影響もなく、何も模倣せず、ボク独自の道を追求してきたからね」と先生は60有余年のご自分の画業を矜持と共に振り返る。
 
 2カ月半の会期中、随分色々な鑑賞者があり、中にはぶらっと入ったまま4時間も絵に没頭していた福島からの来館者もいらした由。また御宿在住の著名なグラフィック・アーティストのYさんも「こんなに独創的で秀逸な作品、滅多に見られない」と。先日来館されたアルマーダ駐日メキシコ大使もその芸術性を高く評価、是非東京のメキシコ大使館でも、と開催希望された由。
 
 島田先生とサムさんお互いの自己紹介の後、サムさんの島田先生へのオマージュ演奏が始まった。


 まず3人のヴァイオリニストによる「チャールダーシュ」。みなさんクラシック奏者でもあるので、このテンポの早い曲を見事なハーモニーで弾きこなす。
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            (3人のヴァイオリニスト)

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             (島田先生を前に先生へのオマージュ演奏)

 そしていよいよサムの登場。奇しくもその日が彼の70歳の誕生日、ということでラティン歌手で友人のナタリーさんから贈られたバースデー・プレゼントが披露される。この「サプライズ」にサムさん、大喜び。メキシコ版ハッピー・バースデー曲、マニャニータ(Mañanitas)を、「自分で自分の誕生日にこの歌を歌うなんて初めて」と言いながら、高らかに歌い上げる。聴衆みんなもこの歌とプレゼントのお菓子のおすそ分けにあずかる。

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             (バースデープレゼントを前にMañanitasを歌うサム)

その他サム夫人ルミさんとメキシコ人青年の小気味よくサパテアードを効かせたダンス、私の大好きな「泣き女」(La Llorona)等々、まるで本物のメキシコ、マリアッチ広場にいるような幸福なひと時だった。

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               (歌い踊るマリアッチ・サムライ)

島田先生もご自分の個展がこんな盛り上がりで閉幕することができて、サムさん一行に、そして我々にまで感謝して下さる。
 
「来夏には是非御宿で『マリアッチ・サムライ』のコンサートをやりたいね」とすっかり御宿が気に入ってご機嫌なサム。「今度は恵比寿の『エル・リンコン・デ・サム』に懐かしいメキシコ料理を食べに行きますよ」と島田先生。「その両方にお供します!」と我々。
 
こうして短い霜月の1日はあっという間に暮れたが、夏至の日にも匹敵するような実に中身の濃い、長~く熱~く感じられる1日だった。


「槇39号」発刊

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 1116日私達の文学同人誌「槇」39号が発刊された。
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 今号はこれまでのページ数に比べると2/3ほどのページ数。書き手も大分減って寂しい限りだ。
 
仕方がない。去年秋、会の創設者にして主宰者の農民文学作家の遠山あき先生が亡くなり、その半年前会長の三好洋さんも亡くなり、事務・連絡関係を一手に引き受けていた勝山朗子さんが病に倒れ、その他主要メンバーが高齢を理由に引退…等々。その反面新規入会者も少ない、という昨今どの文学同人会にも共通する現象が我が「槇の会」にも影響を及ぼしているからだ。
 
だからといって、遠山先生がおられなくなったからといって、40年続いた「会」解散、廃刊、というわけには行かない。失われた屋台骨、いや失われかけた「槇」という家そのものを廃屋にしてしまうのはいかにも口惜しい。
 
40年前遠山先生がこの会を創設した時は千葉日報社主催の「千葉文学賞」を受賞された時で、「賞を受けたからといって、いきなりひとかどの作家になれるわけではない、受賞したことが作家へのスタート地点、受賞者が互いに切磋琢磨しあって、本格的な作家になろう」、と他の同賞受賞者等に呼びかけて、賛同者が一堂に集ったのだという。
 
「槇1号」にはそのいきさつが詳しく書いてあり、その結果30人近くの賛同者が結集、同人誌1号にしては粒ぞろいの作品が掲載されている。
 
先達の軌跡を辿ろう。多くの作家志望者、文章修行希望者に広く参加を呼びかけよう。
 
それには自分達のこの39号掲載作品を呼び掛けに相応しいものにしよう。
 
それに39号は「遠山先生追悼号」でもある。先生の墓前に捧げるにふさわしい作品にしよう。そう思って会員一同がんばって上梓した作品集だ。
 
表紙絵は乾浩さんの切り絵彩色「酒房・山居倉庫と欅並木」。毎号美しい絵で、これを見ただけで内容を想像してワクワク。中扉のユリの花のカットも可憐。
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まず巻頭は乾浩作「乳牛ぶちとの別れ」。歴史小説作家の乾さんがガラリと作風を変えて北海道の酪農家庭の少年の目から見た人間と牛の愛情あふれる交流を描く。牛の出産時の緊迫した描写は現地で実際に体験した乾さんならではの迫力ある作品。
 
次作は谷チイ子「老いの繰り言」。谷さんお得意の私小説風作品。身辺実生活を克明に描きながら、巧妙に創作部分が交織された虚々実々の作品。手練れの一篇。
 
松葉瀬昭「つれづれに」。乾さん同様歴史物を得意とする松葉瀬さんの今回は随筆集。ご自分の闘病経験からの辛辣な病院批判や夫婦間の微妙な心理の綾など深い人間観察記録。
 
新人小島茂「里山キャバレー道中」。従来の日本語の言葉遣いに慣れた我々旧人類。「これって新文体? それとも我々には理解不能の若者言葉?」と戸惑わされる。若い人の感想が聞きたいな。
 
再び乾浩作品「梅木の下」。戦国時代の房総の武士団を描く連作の1。千葉県人主体の「槇」だからこその作品。多古城城代で剣豪の飯篠家直は主君千葉胤宣を守り切れず、香取神宮境内の梅木山に籠り、「剣で生きるとはどういうことか」と武道の奥義を求めて厳しい修行を己に課し、ある日豁然大悟する。
 
岸本静江作「ここはジパング」第5章。いよいよ主人公ロドリゴがマニラから嵐での漂着を装って日本の御宿に到着、大多喜城主本田忠朝、イギリス人ウイリアム・アダムス、将軍秀忠と面会、最後に家康と会いまみえるべく駿府を目指すまで。
 
牧野恭子「短歌集~昭和も遥か~」。96歳になった牧野さん、「遺言のつもりで書きました」とおっしゃるが、まだまだみずみずしい感性の発露。来号の作品もお待ちしますね。
 
松葉瀬昭「川柳」ここにも軽薄に流動する時流を鋭く辛口で皮肉る松葉瀬流が。
 
特集「遠山あき先生追悼」。釈迦涅槃時ではないが、各人の追悼文からは先生の遺徳を偲んだ弟子たちの嘆きや涙、感謝の言葉、が溢れる。先生の次女の宣子さんからの特別寄稿も掲載。遠山先生、本当にありがとうございました。
 
さていよいよ来年は40号を刊行する節目の年。新生「槇」スタートの号にもなる。ハチマキを締め直し、自分自身の作風もこの機に大転換、をめざし、いざ!


2017年明けましておめでとうございます!

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2017年明けましておめでとうございます!
A HAPPY NEW YEAR!
¡FELIZ AÑO NUEVO!

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 いよいよ2017年も明けましたね。今年は皆様にとってどんな年になるでしょうか? 健康で幸多き、ワクワクするような年でありますよう。
 
 私達にとって、また我が一族にとって、健康で、仲良く助け合って暮らせたことが何よりでした。
 
 2回の家族旅行(山陽方面と長野地方)、夫婦旅行(京都)、春秋のギャラリー展開催、etc.etc.も無事も敢行したばかりでなく、どれも楽しく思い出深い行事ばかりでした。
 
 今年のスケジュールもいくつか決めており、春の「ギャラリー鶴舞窯」展には夫の個展。これまでも2回「岸本恭一作陶展」は開催しておりますが、今回は初の「油彩画展」。これまでも作陶と同時に油彩画、アクリル画を手掛けてきましたが、最近は特にのめり込んで描いております。
 
 昨年夏友人宇佐美玲子さんから短歌集の表紙画を依頼され、表紙だけでなく扉絵まで幸いに好評をいただき、すっかり自信をつけました。今年の年賀状はその原画を使用したものです。
 
 今回は主として油彩画の展示になりますが、陶芸家としての岸本恭一の作品も同時展示、図らずも一人二役、日本ハムの大谷ではありませんが、二刀流の芸術をお楽しみ下さい。
 
 旅行も計画しています。国内でも四国、沖縄、等々、まだまだ未踏の地が一杯。さらに何度行っても探索し足りない京都、奈良… それに元気なうちに行っておきたい海外旅行、カンボジア、キューバ…
 そのうちどれかは是非実現したい!
 
 自分の作品としてはこの5年間書き続けてきた「ここはジパング」第6章を完成させ、これをもってなんとか1冊の本にまとめたいと思っています。それと並行して次の作品も構想し始めました。
 
この年齢になって夫婦共に創作に意欲を持てるのはこの上ないシアワセ。
 
 この意欲とスケジュールを実現するには一に健康、二に健康、三、四がなくて五に健康。これからも毎朝のウォーキング、リハビリ体操を欠かさず、野菜たっぷりのサラダを食べ、規則正しい生活習慣を心掛けます(きっぱり!)
 
 どうか皆様、今年もよろしくお願い致します。


弦楽四重奏の会~黒沼ユリ子のトーク付き弦楽コンサートvol.2

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 新年早々の13日(金)御宿「楽しい弦楽四重奏の会」のコンサートを楽しむため、「黒沼ユリ子のヴァイオリンの家」に行ってきた。
 
 このヴァイオリンの家は何度か足を運び、このブログでも何度か紹介しているが、ここでのコンサートは初めて。

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 3階のポンセホール、定員50名のホールは満員。1月9日(成人の日)にも同じプログラムで2回も公演し、今日が3回目だというのにファンがこんなにも多いのか、文字通り立錐の余地もない。演奏者の息遣い、衣装の衣擦れ、どころか熱演のあまりの飛び散る汗までかかりそう。

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                  (立ち見の人も!)

 その聴衆の中に友人ミヨちゃんの顔を見つけびっくり。以前島田正治展で御宿に来てすっかり「ヴァイオリンの家」のファンになり、是非ユリ子さんのナマ演奏を聞きたい、とご近所の友人2名を誘って来た、とのこと。
 
コンサートはタイトルに「黒沼ユリ子のトーク付き」とあるようにユリ子さんの軽妙で該博な音楽知識をふんだんに盛り込んだトークで始まった。これがあるから普通のコンサートの、音楽だけを楽しむ、というクラッシックコンサートとは一味違う、「名手の音楽プラス語り」もあるから「たまらない!」というユリ子ファンが多い所以だろう。

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                   (楽しいユリ子節)

で、春といえばこれ、という軽快で来たるべき陽春を予感させる「ひばり」から始まった曲目は、
ハイドン      弦楽四重奏曲 Op.64-5「ひばり」より第一楽章
ベートーベン    弦楽四重奏曲 Op.18-1より第二楽章
ドヴォルジャーク  弦楽四重奏曲「アメリカ」
 
演奏者は黒沼ユリ子さんとクァルテットを長年組んでおられる山森陽子(ヴァイオリン)、植村理一(ヴィオラ)、宮澤等(チェロ)、御宿でも度々公演しておられるお馴染みのベテランだ。

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            (アンサンブルの名手たち)

2曲目のベートーベンは音楽に疎い私、今まで知らなかった曲。まだそれほど知られていなかった若者ベートーベンの鬱屈した感情が暗い情念のような、でも所々後年のベートーベンの艶やかさが垣間見える、といった曲。(それもユリ子さんの適切な説明あったればこそ、ここに知ったかぶりで書けるのだ。)
 
ユリ子さんが十代から第二の祖国のように親しんできたチェコ。そのチェコのドヴォルジャークが望郷の思いにさいなまれながら作曲した「アメリカ」。いつも世界中を演奏旅行し、メキシコに半生を送ったユリ子さんにとってこの曲は演奏する度にご自分の感情を込めて弾かれるに違いない。
 
アンコール曲2曲。1曲はお馴染みトロイメライ。2曲目は曲目わからないけど(ごめんなさい)、ピッチカートが4人の演奏者の、時に息を合わせ、時にずらし(ずれる、かな?)、が面白い。
 
終了後演奏者と会場で語り合えるのもこの小さな、ファミリーホールのメリット。私達がユリ子さんにミヨちゃんとその友人を引き合わせると、3人はこんな事は初めて、というので大感激。3人とも内房線五井の住民で外房の御宿はウン十年ぶり。遥々房総半島を横断して聞きに来た甲斐ありましたね。

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         (憧れの音楽家と直に、しかも演奏会場で話せて大感激のファン)

次回も是非、しかももっとたくさんの友人・家族を誘って、という。
 
こういう形で黒沼ユリ子ファン、ポンセホールファン、ヴァイオリンの家ファン、さらに御宿ファンがどんどん増えていったら万々歳。いや、もうそうなりつつある。
 
そうそう、次回のコンサートは、
   320日(祝日)午後1時と3時の2回、
     21日(火)午後1時の計3回。
 
上記4人の他に藤井壮一郎(ヴィオラ)が加わっての弦楽五重奏のコンサート。曲目はモーツアルトだそうですよ。お早めに予約を。
 
予約先    
    黒沼ユリ子のヴァイオリンの家
     299-5106   千葉県夷隅郡御宿町須賀478-2
       電話  0470-62-5565
              メールアドレス  casa.violin930@gmail.com
 

「満席お断り」にならない内に私達も早めに予約しようっと!


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