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Channel: コーヒーを挽きながら~岸本静江のひとり言~
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部屋をリフォーム→リホーム!

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 今年の冬の寒さは格別。なにしろこの暖かい房総半島で11月に積雪があったのだから。
 
 で、長年やろう、やろうと思っていた2室の床断熱工事とガラスの二重窓工事を工務店にお願いした。リフォーム専門会社だけど、店名は「リホームプラザ」。なるほどリフォームして再びホーム(リホーム)として住み心地良くしてあげましょう、という優し~いお店の企業哲学そのもののネーミングだ。
 
 発注が年末だったので、ガラス戸の工事は暮れの内にやってもらえたが床工事は新年になった。
 
 そのガラス戸。真空ガラスにするとかなりの価格、というので恐る恐る見積もってもらう。と、新築でゼロから作ってもらうと高額になるが、ウチの場合サッシ戸の枠がそのまま使え、ガラスだけを交換すればいい、とのこと。スペーシアという最高級クラスにしても、価格は新規に比べて半額近いという。ありがたい。清水の舞台から飛び降りる気になり居間と寝室、計16枚の交換を依頼。
 
 当日熟練の職人さん父子が手際よく交換工事、わずか半日で終了。見た目は今までのとほとんど変わらないが結露がなくなり、外気温が下がっても室内で触るガラス面はさほど冷たくない。これならお正月休みに帰郷する子供達、孫達もかなり安心して泊まってくれるだろう。何しろ彼等は「ド寒がり」の上、都会の断熱・暖房の効いた家・マンション暮らしで、二言目には「鶴舞は寒い!」と宣うのだから。
 
 正月が過ぎ子供・孫達が帰った翌日から早速リフォーム予定部屋の片づけ開始。暮れから始めたかったのだが、彼等がいる間はその部屋を占領しているのだから片付けもできないし、手伝ってももらえない。
 
 一番大変だったのは(今でも継続中)「図書室」の本と本棚移動。毎日少しずつ本を移動。移動しながらついでに不要な本やジャンル毎にまとめる本など見当をつけながら移動するので、こればかりは人頼みにできない。
 
 それにしても本ってこんなに重量があったのか。よく本の重みで家の根太が抜けた、という話を聞くが、確かにこの重さ、体積、ハンパじゃない。秋ごろから古い百科事典や子供達の教科書・受験用問題集などは処分してきたが、美しいカラー写真満載のニュートン学習百科全集を処分した時は涙が出た。断捨離、断捨離とお題目みたいに言われるが、少なくとも本の断捨離は辛い。この言葉につい踊らされて(?)今まで各家庭に眠っていた貴重な文化財や資料がポンポン処分されるのは、現代の「廃仏毀釈」じゃないかしら。途中から開き直って、ナショナルジオグラフィックのバックナンバーはそのまま残す。ついでにその他の「一般的には」処分されるべき本も救助する。
 
命拾い組の中には古いレコード群もある。結婚した頃夫はクライバーンの「皇帝」がお気に入りで暇さえあれば聞いていたし、私もペルーのワルツやメキシコのわらべ歌など日本ではマイナーな盤を持っているのだが、「この際エ~イ!」と処分を一大決心。がその途端、今度は夫が未練を感じ、「これは取っておこうよ」と言い出した。
 
アルバム類も同じサバイバル組。
 
幸い隣の和室は今回改造しないので、そこに山積みにしていく。本その他ガラクタ類が部屋中山積みになった頃いよいよ床下断熱工事が始まった。

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             (和室に積みあがった本の山)

       
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                         (本移動中の夫)

 助かったのは洋間の家具移動がなくなったこと。当初は元々の床板の上にもう1枚板を貼ってもらうつもりだったが、息子のアドバイスでそれはやめて代わりに床下に断熱材を貼り付けてもらう方法に変更。そうすると薄い板を貼るより厚さ5cm位の分厚い断熱材を取り付けてもらえるので断熱効果は格段にアップ。室内の家具もそのままでいいし、上に貼る木材も不要となった。




ところが物事良いことづくめ、というわけにはいかない。床下にもぐる穴は和室中央しかない、とて、折角積み上げたガラクタをどかし、タタミを上げ、床板を上げ、の騒ぎ。出来た半畳ほどの穴から断熱材を運び降ろし、床板の下に貼る作業。連日寒さが続き、冷たい床下の作業で鈴木大工さん大変だったでしょう。ご苦労さまでした。でも嫌な顔一つせず、毎日5時過ぎまでコツコツ、コツコツ、誠心誠意やって下さり本当にありがとうございました。
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                 (分厚い断熱材と和室中央の穴)

いよいよ次は難工事の「図書室」の床貼り。ここの床はいわゆる縁甲板で丈夫なはずだったが、1カ所きしんだ部分があり、私が全面的に二重貼りを主張した元凶だった。当初夫は本と本棚の移動作業の大変さを見越して、「本棚は動かさず、従って本棚の下の床はリフォームせず」と言っていたのだが、どうせやってもらうなら、全面に、と私が強硬に主張。
 
当初からの予定通りこの縁甲板の上に檜の無垢材を貼り付けてもらう。連日少しずつその板が端からきっちり貼られていく。鈴木さんが帰った後、それを見るのが楽しみで楽しみで。貼られていくにつれて家中に真新しい檜の香が満ち、北側の暗い部屋の足元が明るく見え始める。

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(少しずつ貼られてゆく床材)

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             (こんなに見事に貼り終わった!)

 最後の工事は洋間のドアの付け替え。今までこのドア、室内に向かって開くようになっていたが、これだと開けるたびに室内の絨毯に引っかかってしまい、絨毯をめくりあげないと開かない。工務店に相談するとドア幅より廊下幅が辛うじて広いので廊下側に開閉可能、という。ラッキー! ホントはこの際引き戸にしたかったのだが、この分厚いドア材が気に入っていた夫、変更絶対NOというので、この策を採用したのだ。

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                 (ドアが外側に開いた!)

 かくて1週間に渡った「リフォーム」工事完了。期待通りの出来栄え。
 
でもまだ本は片付かないし、当初の夢、洋間を「音楽室」に、とするにはまだまだ前途多難。まず隣室からのピアノ移動のメドが立たない。それどころか、それが実現しないうちに、断熱ガラスに断熱床、冬の日差しが一杯当たって温室みたいになったこの部屋、夫がいち早く画材一切を持ち込んで占領してしまった。ウ~ン、音楽室以前にアトリエとなったか…

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          (ウ~ン やられたぁ)

 しょうがない、この部屋、ピアノが入ったら音楽と美術の「アートルーム」と命名するか…
 
 この地に住んで40余年、あと何年生きられるかわからないけど、今後も生きてる限り、この家に住んでる限り、例え明日死ぬか老人ホームに行くとしても、最後のその日まで、不便な箇所はリフォームし、快適な(リ)ホームとして暮らしたいものだ。



横須賀三浦按針研究サークルの会合にお招ばれした!

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 219日(日)東京湾をぐるりと周るJR内房線に乗って三浦半島突端の横須賀に出かけた。強風の吹き荒れた日だったが、如月「光の春」の日差しはもうかなり強く、殊に房総半島も三浦半島も関東地方では春の訪れはどこよりも早く、暖かい恵まれた一日だった。
 
 同行して頂いたのは御宿の「国際交流協会」会長のツチヤタケヤ氏。御宿関係の私のブログにはほとんど毎回登場して頂く重要なキャラクターだ。
 
 昨年9月メキシコ人学生ミゲルとその母ロリータさんを御宿のメキシコ塔に案内した時、偶然お目にかかったのが横須賀市東逸見町の「三浦按針研究会」ご一行だった。(私のブログ916日号参照)

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                   (あの時の写真)

 その時ご一行の一人吉江宏氏の「ミステリアスな英国人、三浦按針の話」というご本を頂いた。それが縁での交流が始まり、今回同研究会会長のタグチヨシアキ様からの「集い」へのお誘いを受けたわけだ。
 
 五井駅から2時間余、初めての横須賀駅。改札口でタグチ氏と会のメンバーが迎えて下さる。
 
 「集いの会」会場はそのタグチ邸。広いお部屋を3室ぶち抜いてざっと40名位の参加者。実は伺うまでは「按針会」だけの集いか、それにしては人数も多いし、とよくわからなかったが、司会のタグチ氏が参加者一人一人紹介して下さるうちに、集まった方々の出自?が少しずつ判明していった。

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             (タグチ氏、見るからにお世話好き、取りまとめ役にぴったり)

まず「按針研究会」。これによく似た「ガリバープロジェクト」(名高いガリバー旅行記のガリバーのモデルは三浦按針ことウイリアム・アダムスではないか、ということから命名された?会)。次に「コロボックルの会」(これは今月9日に亡くなった横須賀出身の童話作家、佐藤さとる氏を顕彰し、氏の代表作コロボックル物語シリーズから取った名前)、それに「逸見周辺の同人による俳句同好会」の同人達。それに私達「御宿組」。
 
その他元気のいい女性町内会長さん、市議会議員、果ては横須賀市長の吉田雄人氏(若い!)など各界の方々が参集。中には「何だかわからないけど、タグチさんからちょっとおいでよ、と声をかけられたんで、」と頭かきかき挨拶する人も。道理で人が多いわけだ。
 
とにかくどの会もどの方もタグチ氏やタグチ夫人のお人柄に惹きつけられて、集まった、という感じで和気あいあい。

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           (広いお部屋を3つもぶちぬいての大勢の参加者とごちそう!)

中でも今日のとびきりVIPは最近「 AnjinThe Life & Times of Samurai, WilliamAdams」をイギリスで上梓されたHiromi.T. Rogersさんと平戸の松浦藩41代藩主の松浦章・泰子ご夫妻。
 
 Hiromi.T. Rogersさん(17世紀の日欧文学研究博士、イギリス人の夫とイギリス、デボン州在住)がまず挨拶。今回の本を出版するにあたってのイギリスの出版事情をレクチャー。イギリスでは歴史資料・歴史研究書の出版と、歴史を舞台にした小説とでは厳然と出版社が違っていて、前者は大学や図書館、研究者向けの硬い固~い内容でないと門前払い。後者は活劇やサスペンス、恋愛を売り物にしたエンターテインメント小説向け。両者は互いに相手の分野を蔑視?している。日本の司馬遼太郎や塩野七生作品のような、歴史をかみ砕いて多少のフィクションを交え、一般読者に歴史への興味をかきたててくれる「歴史小説」というジャンルは存在しないし、存在を認めようともしないのだそうだ。

 例えばヒロミさんがウイリアム・アダムスが妻となるメアリー・ハインに求愛する場所を浜辺に設定しただけで、「そんなことは史実にない」とはねつけられる始末。それでもようやく出版社を探して上梓、アメリカのアマゾンのベストセラー100冊に入った。それをイギリスで発表しても、フン、と取り合ってくれなかった由。
 
 それが、イギリスの伝統、ヨーロッパの出版界の伝統かなぁ、と感嘆。そういう困難に立ち向かって出版にこぎつけたDr Hiromiは凄い! 偉い!

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                  (ヒロミ・ロジャーズさん)

 松浦章夫妻は世が世なら、私など何部屋も下座に座って謁を賜るほどのお殿様・奥方様だが、実は大変気さくな方。数年前の平戸旅行を思い出し、復元されたオランダ商館、按針墓地、スペイン船着岸地の話などすると、是非また来て下さい、とお誘い下さる。普段は江の島近郊にお住まいだが、平戸のご先祖さまが創案された鎮信流という茶道の御家元で大きな茶会を主宰されるたび、平戸へお帰りになるという。
 
 お話ししているうち偶然章氏と私がほぼ同時代にNHK国際局にいたことが判明。共通の知人・同僚の話でも盛り上がり、にわかに「お殿様」が身近に感じられたことだった。
 
 夫人の泰子さまも気さくな方で、按針会のメンバーからは「奥方、奥方」と慕われておられる。松浦家に伝わる南蛮菓子の秘伝レシピ「百菓之図」に倣い、昨年「東西百菓之図」としてアレンジ版を出版された。菓子本体ばかりでなく菓子器、茶器なども掲載。「婦人画報」(今年3月号)で特集紹介されているとのこと。平戸名物のカスドースのアレンジ版などあるかしら?
 
 遅れて参加したもう一人のVIP。映画監督の錦織良成氏。去年の第40回モントリオール世界映画祭で最優秀芸術賞を受賞し、今年5月頃日本で公開される「たたら侍」の脚本、監督担当。過去にも監督の出身地島根県出雲地方を舞台にした映画を数多く発表しているが、この作品も代々出雲の玉鋼製造の家に生まれた若者、伍介が侍に憧れ信長、秀吉の下級武士に取り立てられる、というストーリー。私はたまたま現在朝日新聞に連載されているこの小説を面白く読んでいるし、監督が私の隣席に着座されたので、これ幸いと親しく話をすることができた。現在は横須賀市在住で、タグチ氏とも昵懇の間柄。ここでもタグチ氏のお顔の広さ、人脈の豊富さに圧倒される。

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         (左からツチヤ氏、私、松浦夫人、松浦氏、ロジャーズさん、錦織監督)

 それらの人々とタグチ夫人はじめ女性陣心尽くしの豪勢なお料理に舌つづみを打ち、様々なジャンルの方々と談論風発、さすがに日永の2月の太陽も傾き始めた。按針会の有力メンバー吉江宏先生のご案内で「按針塚」見学。
 
 標高133mの小高い丘のてっぺんに二基の供養塔。江戸時代からの宝篋印塔で、平戸の按針墓は按針((イギリス人ウイリアム・アダムス)とイギリスに残してきた妻メアリーとの墓だったが、ここでは按針と日本人妻ゆきを供養している。この地に供養塔が建てられたのは、もちろんここがアダムスが家康から拝領した領地三浦郡逸見町の地でもあるが、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家の御厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針の遺言に従ったもの、とのこと。
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                 (按針とゆきの供養塔)

 その表向きの遺言の陰に、思いもかけず異郷の地で生を終えたアダムスの、はるか故郷イギリスの海に続く江戸湾を見下ろすこの地に葬られることは、生前かなわなかった帰国の夢をせめて死後かなえたいという彼の密かな願望も混じっていたのではないだろうか。
 
 それにしても400年前の大航海時代、地球の裏側のイギリスから、もう一つ裏側のメキシコから、奇しくも1564年という同じ年に生まれたアダムスと御宿に漂着したロドリゴ・デ・ビベロ、二人の海の男が1609年この日本で邂逅するなんて! そしてその二人を顕彰する横須賀の人々と平戸の人々、御宿の人々が交流するなんて、歴史とはなんという奇跡を生むものなのだろう。

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(安針塚をバックに御宿のツチヤタケヤ氏と按針会の吉江宏先生)


御宿へアカプルコからのお客様

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 例年になく寒い雨模様の315日(水)早朝、メキシコの熱帯観光地アカプルコから17名の友好親善団が成田空港に到着。御宿町役場の職員と御宿国際交流会&御宿アミーゴ会の会員が出迎え、御宿へ直行。
 
 アカプルコと言えば、16世紀スペイン人によって開港、スペイン=メキシコ=東洋貿易の玄関口となり、今は有数の観光地として世界的な名声を得ている大港町だ。日本とは歴史的交流という点でも特別な意味を持っている。1613年仙台は月の浦から出港した支倉常長一行がまず到着したのがこの港だし、私の研究しているスペイン系メキシコ貴族で1609年御宿に漂着したロドリゴ・デ・ビベロが任地マニラに向け出港したのもこの港、日本で家康に面会後、ウイリアム・アダムス造船になるブエナ・ベントゥーラ号で帰港したのもこの港だ。
 
 その縁でアカプルコと仙台、御宿は古くから姉妹都市関係にあり、個人的にも私達夫婦がメキシコを訪問した1980年、当時の御宿町長の高梨氏にアカプルコ市長への手土産を託された、という経験がある。
 
 午前11時から御宿町庁舎での歓迎式典。これには御宿在住のヴァイオリニストで日本=メキシコ友好の懸け橋となっている黒沼ユリ子さんがゲスト兼通訳として出席。式典を盛り上げた由。
 
式典と昼食後、一行は御宿の文化施設「月の砂漠記念館」、ユリ子さんが昨秋開館した「日本=メキシコ友好の家」見学、続いてドン・ロドリゴの漂着した岩和田海岸、日本=メキシコ=スペイン友好記念塔の立つメキシコ公園、ロドリゴの乗ってきた船の部材を母屋の梁に使用している酒造会社「岩の井」見学・試飲会、と盛りだくさんのスケジュールを元気いっぱいこなし、夕方5時半から180度海を見渡すホテル「サヤンテラス」のレストランでの歓迎レセプションに出席した。
 
私は御宿国際交流会&御宿アミーゴ会会長の土屋武彌氏に依頼され、通訳としてパーティに出席した。(ロドリゴ漂着を起点に日本=メキシコ友好親善のメッカとして自他共に認め、1978年には当時のロペス・ポルティッリョ・メキシコ国大統領の訪問を皮切りに、多くのメキシコ人が訪れ、また今後はスペインとの友好親善にも乗り出そうという御宿町が、どうしてスペイン語のエキスパートを養成、もしくは役場職員として採用していないのか、不思議だ)
 
日本側出席者は30余名。石田御宿町長、町議会議長と議員達、それに土屋氏率いる国際交流会会員及び有志達。
 
5時半開宴。まず町長と議長の歓迎挨拶。石田町長は、すでに御宿とアカプルコは姉妹都市提携を結んではいるが、以前はそれほど頻繁な交流をしてこなかった、が今回の皆さんの御宿訪問を契機に今後は大いに交流を深めようではないか、と将来の両都市の友好促進の意義を強調した。

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      (太平洋を一望する会場で日本=メキシコ国旗を背に挨拶する石田御宿町長)

一方大地町会議長は、今日の悪天候をロドリゴ漂着時の悪天候になぞらえ、むしろ往時の追体験ができたのではありませんか、と。また本日のロドリゴの足跡を辿っての御宿各所の印象はどうであったか、と訪客側に話を振った。
 

それに応えて一行代表の元アカプルコ市長LuisUruñuelaFey氏の答礼挨拶。氏は大柄で堂々たる、いかにも世界有数の観光地の首長だった、という貫禄を有しながらも、今は要職を離れて悠々自適生活を送っています、みたいな柔和でたっぷりしたお人柄。


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          (礼挨拶する元アカプルコ市長Luis Uruñuela Fey氏)

挨拶の中身は、案内された御宿各地の美しさに感動したのはもとより、御宿の人々の親愛なもてなし、温かな人情にはさらに感激した。太平洋を挟んだ隣人同士である自分達、御宿とアカプルコはこれからもっともっと深い絆を結ぼうではないか、と。
 
乾杯の音頭は土屋氏。日本語の挨拶の後グラスを高く掲げてのスペイン語の「¡Salud!(乾杯!)」でホッと座のセレモニー的緊張がゆるむ。
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             (和やかな会場風景)

この夜のバイキング料理は同ホテルシェフの心尽くしのメキシコ料理。トウモロコシ粉のトルティージャ、牛肉入りのスープ、アボカドサラダ…、それらを嬉しそうにお皿に山盛りにしてテーブルに戻ったルイス元市長、ちゃんとナイフとフォークが用意されているのに、割りばしで取り組んでいらっしゃる。しかもサウスポー。外国人が箸で和食をぶきっちょそうに食べるのならよく見る光景だけど、メキシコ人がメキシコ料理をお箸で! (写真を撮りそこなったのが残念。絶好のショットになったのに…)
 
夫人のBlanca Villalbaさんもスピーチ。彼女は今回の来訪を機に数枚の精緻な刺しゅう入り民族衣装と50個ものかわいいカラフルな壁飾りを御宿に贈ってくれた。とても気さくな陽気なお人柄。これも刺しゅう入りの民族衣装が大柄で堂々とした夫人によ~く似合っている。

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          (御宿町長にお土産の目録を渡すBlanca夫人。手前は夫のLuis氏)

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(精緻で渋い民族衣装のBlanca夫人)

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(お土産の壁飾り)

皆さん昨夜から15時間に及ぶ空の長旅の後、御宿での一連の見学ツアーとセレモニー、その上アカプルコとは30度近い気温差(出発日あちらは37度、御宿8度)、15時間の時差、と相当なハードスケジュールだったにも関わらず、よく召し上がり、よくしゃべり、ちっとも疲れを感じさせない。まだまだしゃべれるぞー、まだまだ食べるぞー。
 
で、7時半のお開き時間到来がいかにも残念そう。
 
閉会は御宿の教育長氏の「一本締め」。私も声を張り上げる。

“Ahora viene la hora de terminar. ¡Vamos a saludarnos de clausura con unamanera auténtica japonesa “一本締め!  osea una sola palmada!   ¡Levántense por favor con los brazos y manos abiertosarriba!”

全員立ち上がって両腕、両手を大きく開き、
「お手を拝借、よ~ぉ、ポン!」の合図に、全員両掌が真っ赤になるほど大きく打ち合わせる。続いて拍手、握手、笑い声。
 
 首尾よく一本締めでお開きになったのに、まだまだ物足りないご一同、あっちでしゃべり、こっちで記念撮影し… 今夜はここで一泊、明朝10時の特急で東京駅→仙台、とこれからも強行スケジュールが待っているというのに、この元気さ。元気はいいけど、大丈夫かなぁ、メキシコ流ルーズさでタカをくくっていても、ここはニッポン、電車は待ってはくれないんだけど…
 
ともあれ、2週間の日本滞在、この異常な寒さも滞在中には和らいで、お帰りの頃にはウラウラ陽気に桜の花もあちこちでほころんでいるでしょう。
 
¡Que tengan buen viaje!

度肝を抜かれた草間彌生展

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 東京六本木の国立新美術館開館10周年記念として“超”前衛芸術家、草間彌生の「わが永遠の魂」展が開催されている。

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                (草間彌生展ポスター)

 以前から草間作品に傾倒していた私達夫婦、心躍らせて入場。
 
 いや、入場する前から美術館周辺は草間カラー一色。広い敷地の立木という立木に草間のシンボルマークの赤い水玉模様の布が巻きつき、ベンチには彼女のポスター。

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                                   (「木に登った水玉」)

 平日昼間というのに当日券売り場は蜿々長蛇の列。しかも観客の層がフツーの美術展の層とは格段に違う。若いカップル、子供連れ、学生グループ、そしてたくさんの外国人。
 
 まず薄暗い第1室。草間が初めて富士山を描いた作品。「生命は限りもなく、宇宙に燃え上がって行く時」。横長の画面いっぱいに茶色い富士山。雪を頂いた頂上の火口は赤い花。その花に微笑みかけるのはオレンジ色の太陽。青と白の細かい水玉模様の版画摺りみたいな空。北斎の富嶽とも違う、片岡珠子が献花する富士山とも違う、勿論伝統的な日本画の富士山とも違う、「草間の冨士」だ。

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                   (草間彌生と富士山)

 その狭い空間を出ると、ワァー。眩い照明の下、大展示場(天井高5m、奥行き50m)の壁面一杯に並ぶ「わが永遠の魂」連作。500点余から132点を厳選して展示、というが、まるで「空白恐怖症」みたいに3方の壁面のてっぺんから床面まで縦横194x194m,162x162m2種類のパネルがぎっしり。それも2009年から制作を開始、88歳の今日に至るまで描き続けているから、新鮮そのもの、出来立てほやほやの作品ばっかり。

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                    (会場風景)

 しかも床には3カ所に巨大なオブジェ。ピンク、黄色、赤、青、緑、など幼稚園のパステルカラーに塗られたすべり台やブランコを思わせる、あるいは熱帯の池に浮かぶ食虫植物を連想させる、奔放な色使いの花々。

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       (奔放な色使いの「真夜中に咲く花」「明日咲く花」)

 連作画題は、どうやら「生命の根源」。黄色い細胞液に浮かぶミトコンドリア、絡み合う血管、泳ぐ精子、ひしめく細胞群、血管内を流れる白血球… まるで強烈な陽光か眩い電光の直射を受けて思わず閉じた瞼の裏の7色の残像。

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             (壁面を上から下まで埋め尽くす作品群)

 本人によれば、テーマといい、構図といい、色遣いといい、何らの逡巡も技巧も要しない、みんな本人の脳裏、眼底に浮かぶ像を、そのまま映した物ばかり、という。
 
 それだからか、ここには明白な日本の伝統文化のカケラも見えない。ワビもない、サビもない。面相筆による繊細な線描もない。
 
でもこれを見ているうちに昨年3月六本木の「森美術館」で見た、村上隆「五百羅漢図展」の大画面、大オブジェをゆくりなく思い起こした。大画面に乱舞する金、銀、赤、黄、黒、紫、など華麗な色彩、奔放にデフォルメされた五百羅漢や達磨、果ては髑髏など、これまでの繊細な日本画とかけ離れたスケールの作品群だった。
 
また「奇想の画家」といわれる江戸時代中期の画家、伊藤若冲の動植綵絵の群鶏や鳳凰の鮮烈な色彩。
 
そう言えば狩野永徳のあの力強い「檜図」。大画面を横切る檜の幹。
 
「芸術は爆発だ!」の岡本太郎の強烈な色彩作品群… 
 
こう考えてみると、草間彌生作品も決して古来からの日本文化とかけ離れた根無し草ではない。
 
みんな縄文の火焔土器文化に源流を持つ、地下のマグマのようなエネルギーに満ちた、日本人独特の強烈なDNAの発露だ。みんな脈々と太いパイプでつながっているのだ。DNAの鎖の一環として日本文化の1大要素となっているのだ。あにワビ、サビ、渋み、陰翳礼讃、茶室文化ばかりが日本の伝統文化ではないのだ。
 
そう思うと会場を走り回る子供達の、リュックを背負った若者グループの、突拍子もない色彩・デザインのTシャツ、パンツ、リュック。ビジネススーツから解放された定年世代の青色ジーパンとバンダナなど、老いも若きもポップでカジュアルな服装は縄文人の、先達芸術家の、爆発するエネルギーの継承そのものだ。
 
この会場内に限り撮影OKなので、みんなスマフォやタブレットをかざして作品撮影。自撮り、仲間とのツーショット。
 
 かく言う私も今日は大好きなペルーのカーディガンを羽織ってきた。見て、見て! 草間作品とのコラボ、合うでしょ?

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             (どう? この色、このデザイン)

 でもこの女性のいでたちには「負け~っ」! 黒い帽子といい、黒地に赤い水玉模様の上着といい、グレーのスカートといい、上から下まで草間カラー。その上背中のこのリュック! 

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大広間の大カオスを抜けると「生命の輝きに満ちて」という鏡の間。暗闇の中に無数のライトが点滅する真っ只中を歩くと、自分が星になって宇宙空間をさまよっているようだ。
 
 Kusama  in  the  20th  centuryと銘打った初期の作品群もある。193910歳の時から1957年までの出身地松本時代の、71年までのニューヨーク苦闘時代の作品。でも、例えば1951年の[the  Heart]という作品にはすでに現在の草間作品の原型がある。色こそ違え、2014年作で今回の第1室を飾った「生命は限りもなく、宇宙に燃え上がって行く時」がそれだ。
 
 ニューヨークっ子の度肝を抜いたという「the  Man」や「Macaroni  Coat」のオブジェは、今だってドッキリだ。
 
 会場に収容しきれない高さ4.5mの巨大な黄色いカボチャは屋外に展示。抱きついたり、記念撮影する人影が絶えない。ミュージアムショップも長蛇の列だ。
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                  (屋外展示のカボチャ)

この人気、それを過去の栄光とせず、88歳の現在も草間は何かに追い立てられているかのように、創作の道を走り続け、しかもその道の幅は日毎に広がり、深くなってゆく。
 
 ブランド企業と組んでのバッグ類のデザイン、お菓子の包装紙、ドレスパターン、家具装飾、高速バスの車体塗装など草間作品のシンボルである水玉やカボチャや網目が、街中に、田園に、瀬戸内海に、とめどもなく反復し無限に増殖してゆく。
 
そのビッグバンの始原点に赤髪のカツラ、黒地に赤い水玉ドレスをまとった草間が、大きな目を見開いて増殖の行方を凝視している。そして、あの独特の語り口で、ぶっきらぼうに呟いている。
 
「わが永遠の魂」は、もっと遠くに、もっと拡大し、宇宙の果てまで拡散し、その一方身体の内奥のもっと深く、もっとミクロ世界に、もっとナノ世界にも沈潜するのよ。いわば神の領域まで、そして悪魔の領域まで、それを私は究めるの。
 

 それまでは「我ひとり逝く」(1994年)ようなことがあっても、「天上よりの啓示」(1989年)を受けて、時には黄色いカボチャの点になり、赤い水玉になり、「一億光年の星屑」(1989年)となってよみがえってみせるわ。(「よみがえる魂」(1995年))



ギャラリー鶴舞窯春展「岸本恭一油彩画展」

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庭の桜が咲き始めました。いよいよ4月、わがギャラリー鶴舞窯も始動です。
いつも春展は5月なのですが、今年は4月8日(土)~57日(日)まで、と例年より1カ月先取りしました。これは市原市の「いちはらアートxミックス」開催に期を合わせたからです。(ただしウチは5月7日まで)

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            (いちはらアートxミックスポスター)

岸本恭一油彩画展「山川草木悉皆有意」。

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          (岸本恭一油彩画展ポスター)

このタイトル、あれ? 岸本恭一って陶芸家じゃないの?と思われる方いらっしゃるでしょうね。
 
そうなのです。夫は陶芸家として陶芸作品の創作に励んできましたが、子供の頃から美術全般の鑑賞が趣味。焼き物ばかりでなく、絵画、彫刻、工芸、と幅広く各地の芸術鑑賞の旅、その結果の「病膏肓(やまいこうこう)に入る」で作陶の道に入ったのですが、その傍ら、絵画制作にも触手を伸ばし、若い頃は銅版画制作、最近は油彩画にのめり込んでおります。
 
 その作品が大分たまりましたし、我がギャラリーも今回で18回目、いつもの他作家とのコラボとは趣を変えて、自分の2方面の芸術活動のコラボというのは、どうかしら?と。「アートxミックス」の趣旨にも合うし、ね。
 
地球のマグマを、山川草木の持つ生命のエネルギーを、そして、誰もやったことのない作品を、「創る」というのが陶磁器制作でも絵画制作でも創作に取り組む時の夫のモットー。
 
で、今回の油彩画作品も自然を謳った抽象画が大部分。「山」「雲」「風」「岩」「桜花」「港」など一応各作品にタイトルは付けましたが、ご覧になる方が「いや、これは山じゃない、空だ」とか「むしろ女の人の上半身でしょ」と様々な見方をして下さるのを期待しております。中には「伊勢物語」など、作者に由来を聞かなければわからないタイトルもあります。

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               (ハンマーストーン)

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(塔)

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(豊穣)

大画面はありません。F20号が最大、大抵は小品です。油彩画17点、銅版画2点、計19点を選びました。
 
陶芸作品ももちろんあります。ざっと50点。これもここ10年来凝っている「山」シリーズ。表面に凹凸や刻文を入れた口径の小さな青磁、白彩磁の花瓶類。いずれも山や樹木をイメージし、「峻」「峨」「枳(キ)」「杌(ゲツ)」などと銘打った作品群です。

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            (伊勢物語を中心に白彩尊(ソン)と白彩杌(ゲツ))

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               (油彩画左から「風」「雲」「能」と下段は白彩磁と青磁)

本人が陶芸作品にしろ、絵画作品にしろ、真剣勝負ながら、その勝負を心から楽しんで創作した作品ばっかり。よく言えば「ひとりよがり」の作品ばっかりですが、それらをご覧の皆様が「おひとりよがり」に鑑賞し、解釈をし、タイトルを付け、お楽しみいただければ、主共々私まで望外の幸せです。
 
開幕は明日です。お間違えの無きようお願い申し上げます。庭の満開の桜共々お待ちしております。


いちはらアートxミックス2017 

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「いちはらアートxミックス2017」に3日間かけて回ってきた。
 
 前回、3年前の2014年時、私達は1カ所しか行かなかったが、今回はウチの「ギャラリー鶴舞窯」も参加しているし、内容もなかなか面白そう、と食指が動き、パスポート購入。

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                 (ガイドブック)

 初日はまず「市原湖畔美術館」。館内は絵本作家加古里子(かこさとし)作の小湊鉄道100歳企画絵本「出発進行!里山トロッコ列車」刊行に合わせ、絵本の原画などを展示。昨年出版時いち早く孫達用に購入したので、興味もひとしお。それに加古作品は「カラスのパン屋さん」や「ニンジン畑のパピプペポ」など孫の親達も大好きだった。原画は淡彩で、穏やかな作者の人柄と房総中部のやさしい里山風景がマッチして郷愁を誘う。
 
 高滝湖畔に接したなだらかな芝生の庭にはアーティストの豊福亮氏をリーダーとした「イチマル」(いちはらマルシェの略)。半世紀前このダム湖建設のため湖底に沈んだ集落を廃材やテントなどで市場(マルシェ)として再現。なんだか日本の集落というより、中南米かアフリカの集落のお祭り風景みたいな原色の小屋群。中央にワークショップ広場。各小屋には陶芸、布工芸作品などの販売ケース、ワークショップテーブル。若い出店者達がまず楽しんでいる感じ。さぁ、お祭りだ、お祭りだ。

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            (イチマル中央広場。後方は高滝ダム湖)

 次に旧里見小学校。市原市南部では人口減少のため高滝、白鳥、里見、月出の4小学校を廃校とし、旧加茂中学校と合併させて小中一貫の加茂学園としたが、今回のアートxミックスではその旧校舎をそれぞれ会場として様々なイベントやアート作品展示場とした。旧里見小学校もその1。
 
 ここの売りは「100人教頭学校キョンキョン」。地域に根差した活動をしている100人を教頭に任命。毎日開講している講座で、ジャンルは郷土史、自然、アート、食、音楽、体育、遊びなど多種多様。ワークショップ形式あり、コーラスあり。私達の友人は子供たちに竹トンボ作りを教えたそうだ。
 
 2fの美術室では豊福亮の名画模写作品が天井や3方の壁にぎっしり。フェルメールあり、ゴッホあり、ゴーギャンあり、ルノアールあり。いながらにして「名画とは?」「名画の名画たるワケ」が自ずからわかってくる、という作家の問いかけ、かな?

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              (里見小 豊福亮作品 展示室)

 ここでは別棟に里山食堂があり地元の食材を使ったカレーやオムレツが食べられる。市原在住の画家前田麻里のメルヘンチックな作品も鑑賞できる。
 
 その他の元教室や校庭でもさまざまなイベントや展示が地元のボランティアの支援により実現されていて、かつてこの学校が地域の大切な宝物だったことが実感できる。2014年時大好評だった三角の巨大なおにぎりを玉転がしのようにみんなで転がして競う「おにぎりのための運動会」も。
 
 ついで旧白鳥小学校。ここもかわいらしい、掌に入ってしまうような小学校。ここに私達のお目当ての展示物がある。かつて養老川を上下し地域の荷運搬を担っていた川船模型の展示。実はこれは養老川河畔に桜を植樹する活動を進めているボランティア団体「桜さんさん会」(河内昌蔵会長)に私の夫が制作を提案、川船研究家で設計者の松井哲洋氏の縮尺設計を経て実現したもの。松井氏によるとかつて日本全国の河川で運行していた川船は、河川毎、また用途毎に少しずつ形態や大きさが異なるため、全国共通の設計図というものもないし、あまりに身近な存在だったので、それぞれの地域の船大工や造船会社が設計図も引かず、顧客からの注文があれば「ホイキタ、いつものネ」と手慣れた材料とカンで作ってきたので、いったんそこの川船が不要になり、廃れてしまうと復元が容易でない、との事。だからこの養老川の川船復元も大変なご苦労だった由。
 
 でもさすが長年の研究実績をお持ちの松井氏の指導の賜物で素晴らしい船が再現。材の隙間に詰める槇肌(まいはだ、槇の樹皮を加工して縄状にしたもの。濡れると水分を吸って膨張、ぴったりと川水の浸水を防いでくれる)など細部まで実用船としての技術が再現されている。これを見ると実物を作って実際に養老川に浮かべたいものだ。現にこの様式でみんなが乗れる屋形船を作ろう、と同会の河内会長意欲満々。

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(川船模型)

 川船模型展示室と同室にはこの地域在住で一昨年亡くなった農民作家の遠山あき先生の著作やアルバムも展示。次女の宣子さん、孫の和美さんがアテンドして下さる。
 
 2階突き当りの旧教室にはチェーンソーカービング作家で国内外での大会で優勝している栗田宏武氏制作の木彫作品も展示。その量と技術に圧倒される。
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            (栗田作品群 幻想郷に迷い込んだよう)

 かつて図書室だった部屋で意欲的な仕事をしている若者発見! 沼尻亙司(ぬまじりこうじ)さん。船橋市出身の35歳? 現在は勝浦市内の古民家に居を定め、同市の地域振興に尽力の傍らたった一人で千葉県中のカフェ、レストラン、パン屋などを探訪、自主出版の本を制作・販売している。面白そうなので内2冊「房総のパンⅠ」と「房総カフェⅣ」を買い、その地域にかける彼の愛情や起業精神などを聞く。今どきの若者、大したものだ。
 
 その日の探訪はそれで目いっぱい。到底全部は見きれない。
 
 アートxミックス会場探訪第2日。
 
内田小学校旧校舎を利用した内田未来楽校(現在の内田小学校は国道409号(房総横断道路)を挟んだ向かい側)。昭和3年創建の、今では貴重な木造校舎。一度は売却、取り壊しの運命だったが地元有志が購入、手入れし、地域結束の核となっているそうな。
 
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(郷愁を誘う木造の旧内田小学校外観)

地元野菜の販売、トンボ池の整備、イノシシ退治の知恵交換、などここならではのイベントも企画。ウチの孫達も「エビガニ釣り」に参加させてもらったことがある。
 
今回は旧教室をぶち抜いての「蝶々と内田のものがたり」展。アーティスト、キジマ真紀さん指導の布による蝶々展示。去年から地元の人々によって手縫いされた約1,000匹の蝶々が竹ひごの先端でゆらゆら。お花畑にいるような気分に浸れる。

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              (1,000羽もの蝶々が舞う 旧教室)

次は旧月出小学校の「月出工舎」。最寄りの小湊鉄道月崎駅からでさえ4つものトンネルをくぐり坂道を上るという離れ集落。作家の遠山あき先生夫妻が戦後間もなく赴任。3人の子供と共に夫婦で学校宿舎に住み込みながら小・中学生の教育にあたり、悲喜こもごもの生活を送ったという。その体験記は涙なくしては読めない。遠山文学の原点の1つだ。
 
今は廃校となり、当時の木造校舎解体、現在はコンクリート3階建ての建物になっているが、アーティストの岩間賢さんがプロデュースしただけあって見ごたえあるアートの拠点として甦っている。

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            (岩間作品の後方、旧月出小学校校舎)

まず校門から校庭に続く階段の中央に鈴村敦夫作「つながる波紋」、水をモチーフにしたモザイク階段が出迎えてくれる。その右手、校庭より一段と高くなった崖地にプール。水を抜いた底面から立ち上がる巨大な2基のモニュメント「うたつち」。骨組みの周囲を捏ねあげた泥土(周辺の粘土と「市原ぞうの国」の象さん達のフン…ワラの繊維たっぷり)で覆った岩間作品。凄い迫力。その後方には同じ岩間作品、というより台風で倒された巨木を組み合わせた、「台風」との合作ともいうべき倒木作品。

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          (岩間作品3体…手前2体は泥材、正面奥が倒木作品)

校庭に戻るとチョウハシトオル作「火処(ほど)の大屋根」。昔から農家の生活には欠かせなかった竃(へっつい)を並べその上空をテントで覆った、原始の村を彷彿とさせるインスタレーション。
 
校舎に入る。すぐとっつきはレストラン「ニワコヤ」。東京は仙川で営業していたギャラリーカフェが丸ごと出店。旬の地元食材を洋風にアレンジしたランチ、ご馳走様でした。

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             (ニワコヤ ランチ)
 
レストラン隣室と2階は展示場。岡田杏里作「脳内原始旅」。なんかメキシコ風だぞ、と思ったら岡田さん現在メキシコ在住、先住民の土着文化を研究中とか。壮大なテーマと鮮やかな色彩だが、欲を言うと、それをナマなメキシコの影響色の表出でなく、もう少し自家薬籠中の物にして欲しい。というのもこの作家に期待しているからかしら。ナマイキでごめん。

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              (岡田杏里作品。 2Fにも同作家作品)

岡博美「たゆたう」は淡い藍の色調を染めた紗のヴェールのような布地を天井から丸く吊り下げた作品。布の円筒内に入ると、ベビー蚊帳に寝かされた幼児の見る世界、と言った、柔らかで夢ともウツツともつかない世界が想起される。
 
アテンドしてくれるボランティアも、地元民だけでなく愛知県立芸術大学岩間美術教室の学生のアキラミウさんのような、芸術家の卵、といった若人。彼等がこの校舎3Fに住み込んで研鑽に邁進しているのも、この月出工舎の他会場とは一味違った特徴だろう。リピートしたい会場だ。
 
探訪3日目はひたすら「あそうばらの谷」会場を目指す。
 
道を間違え、大多喜との境界あたりの狭く曲がりくねった山道を大回り。どうやら上総中野の奥を走っていたらしく、いすみ鉄道中野駅に出た時はホッと一安心。また山道を今度は小湊鉄道養老渓谷駅に出、勝手知った「あそうばらの谷」ギャラリー。

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             (あそうばらの谷ギャラリー外観)

すきっ腹をまず館隣の「おもいでの家」のカレーで満たす。地元JA婦人部の出店。土日は筍ご飯など山菜料理がメーンだそうだが、今日は閑散。その分サービス満点。市原名物の梨原料のサイダーもツーンと脳天に来る強刺激味でなく、マイルド。

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           (おもいでの家カレーと 梨サイダー)

いよいよ会場へ。鈴木ヒラク作「道路」。市原市内のトンネルあり、農道あり、幹線道路あり、の多種多様な道路をイメージ、石と木と金属によるインスタレーション。前回2014年の展示ではこの趣ある古民家を全体真っ暗な空間にしてしまったが、今回は家全体の構造を活かし、玄関からを道路の入り口と見立て→内部→出口をイメージしたもの。養老川を見下ろし桜に囲まれた絶好の敷地と相まってここはまさに南市原の原風景。「いちはらアートxミックス2017」の拠点中の拠点。

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             (あそうばらの谷ギャラリー内部)

家路への帰途養老渓谷駅の踏切に差し掛かった時、滅多に見られぬ光景が。鉄道写真ファン垂涎の的の小湊鉄道の黄色と赤のツートンカラーの車体が目の前を通過したのだ! 

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            (地元でもなかなか遭遇しない小湊鉄道車両。ラッキー!)

そのおまけもうれしく、今回のイベント、みんなみんな良かったなぁ。まだまだ会期半ばだし、私達も全部見たわけでもないけれど、あなたも是非回って、楽しんで下さ~い。

ギャラリー鶴舞窯「岸本恭一油彩画展」終了

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 48日から開幕した我がギャラリー鶴舞窯春展「「岸本恭一油彩画展」はお陰様で57日(日)をもって終了いたしました。
 
 例年の春展より1カ月早い開館でしたが、その分満開の桜、桜、に囲まれての桃源郷ならぬ「桜源郷」での個展となりました。

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                            (桜に囲まれた我がギャラリー)

 従来の「陶芸家岸本恭一作陶展」でなく、初の「『画家』岸本恭一画展」となりましたが、大勢のお客様に足を運んで頂き、「先生、絵も描くんですか?!」と驚かれたり、初めてのお客様は同時に展覧した陶磁器作品に、「これは誰方の作品で?」と訊かれるなど、新しい分野の開拓にもなりました。

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                 (「岸本恭一展」の看板)

 夫は美術学校や画塾で正式に作画方法を学んだわけではありませんので、創画においても堅苦しい構図法だの、配色上の禁じ手などにとらわれず、自分の感性だけで勝負してきました。
 
その感性は青少年時代から、洋の東西、古今のジャンルを問わず、あちこちの美術館に足を運んだり、画集を紐どいたり、美術審査に携わったりしてきたことで磨かれ、そこから独自の審美眼が育ったようです。
 
 ですから「こんな絵初めて見た」というお客様の反応が一番うれしく、特に彼を喜ばせたのは、プロの画家の「この絵はショックだ。ガンと頭を叩かれたようだ」とのお言葉でした。その時はまだ自宅の居間に飾り、誰の作品とも申し上げずにいた時でしたから、ひとしお嬉しい批評でした。
 
 半具象画と抽象画を並べたのですが、抽象画はタイトルを付けるのが一苦労でした。本当はタイトルなど無い方が鑑賞者に自由な見方をしていただけるのですが、「無題」「無題」ばっかりも面白くありません。で、一応表題を付けましたが、それもイメージが限定されるようなタイトルは避けております。例えば「塔」という作品、夫は御宿のメキシコ塔をイメージして描いたらしいのですが、「メキシコ塔」では実物をご存じない方にはイメージしづらい、いっそのこと「塔」だけの方が鑑賞者各自がご存じの塔をイメージして頂けるのではないか、と「メキシコ」という限定語を避けた、という具合です。

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              (半具象画「蓮華」と「塔」をご覧のお客様)

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                      (「蓮華Ⅰ(開花)」)

 案内ハガキに使った絵もタイトルは「港」としましたが、真紅の海に青色の空、「これって逆さまじゃない?」とはよく言われました。逆さまに飾って頂いても、縦横取り換えて頂いても、結構ですよ、と申し上げました。購入されたお客様は「半年こうやって楽しんで、次の半年は逆に飾ろう」と。

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(「港」1)

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 (「港」180度回転)

「港」はそれでもそのタイトルをつけたことでそこそこ「港」に見えなくはないのですが、「伊勢物語」や「雲」「能」に至っては、なんとなく色使いが能衣装に見える、宗達の「伊勢物語シリーズ」を想起させる、など、そこは作家とその妻の特権? 勝手な印象から付けたまで。そこが抽象画の面白さではないでしょうか。

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  (「伊勢物語」)


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            (「能」)

 南市原地域で開催中の「いちはらアートxミックス2017」巡りのお客様も立ち寄って下さり、常連のお客様でないだけに、いつもと違う話題で盛り上がりました。皆様、アート鑑賞だけでなく、日常生活から離れたゆったりできる非日常空間やご自分の思いを遠慮なく開陳する場所があまり見当たらないのか(失礼!)、見知らぬ同士がお茶やお菓子をつまみながら、芸術談義、まち起こし構想、出身地自慢、グルメ情報に時を忘れ、お帰り時にはすっかりアミーゴ(友人)となり、という具合で、我がギャラリーのサロン役も充分果たせたようでした。

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               (サロンとして楽しく)

 桜の開花に合わせた展覧会も幕を閉じた今、周囲の風景も桜からツツジ、新緑、と移り変わって青葉の陰濃い季節となりました。もうすぐホトトギスも南総の空に渡って来ることでしょう。
 
 1カ月間本当にあっと言う間に過ぎました。お陰様で充実した1カ月でした。
 皆さま本当にありがとうございました。また秋展でお目にかかれるのを心から楽しみにしております。


メキシコ3世代来日

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 610日(土)お馴染みメキシコ青年ミゲル君一族3世代が我々市原市のスペイン語学習クラス「アミーゴス」に出席した。
 
ミゲル君一族、と言っても今回彼は来ず(日本娘のユーキちゃんと結婚したばかり、国際結婚に伴う各種手続きやら求職活動やらで多忙)、彼の兄のセルヒオ、母のロリータ、その母のティータ、の3世代。
 
 セルヒオとロリータは2度目の訪日、おばあちゃんのティータだけが初来日、どころか初外国訪問。
 
 67日(水)早朝来日。成田からいつものようにステイ先の田口夫妻宅に直行、勝手知った「日本の故郷の家」で荷を下ろすなり早速活動。綺麗好きなロリータは前回約束した通り田口家の台所やふろ場の掃除、セルヒオは薪割り。8日は五井周辺で買い物。田口夫妻の友人のガーナ女性の送金手伝い。9日は3人だけで上京。東京駅・皇居(丁度天皇陛下退位特例法が国会通過した日で、皇居周辺には大勢の人々が散策、取材の報道陣も多数いて、早速インタビューされた由)、そして銀座界隈観光。そして翌10日に我々と再会したわけだ。
 
 早速授業。3人の自己紹介。

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             (和室でのクラス風景、お土産が並ぶ)

おばあちゃんのティータは72歳。現役の薬剤師さんで自宅から車で30分の薬局勤務。ロリータは去年9月来日した時は肝炎で厳格な摂食治療中だったが、完治した現在はなんでも食べられる、と嬉しそう。セルヒオは5年前来日した時は環境問題専攻の学徒で来日直後に青山の国連大学を見学したがったが、今回は2人の女性の秘書、荷物運び、ipadとスマフォを駆使してのガイド、に徹している。ただ弟のミゲルが先に日本人女性と結婚したのがうらやましいとて、自分もできたら日本女性の恋人を、と言う。で、目下日本語特訓中。
 
メキシコ土産のお菓子やタマリンドジュースを味わいながら、次に3人の姓名の説明。おばあちゃんの正式名はマリーア・アルタグラシア・ルエダ・フアレス(通称ティータ)、母親はマリーア・ドローレス・サンチェス・ルエダ(通称ロリータ)、そしてお馴染みセルシオはセルヒオ・ガルシーア・サンチェス。みんな長くておまけにいわゆる姓がそれぞれ異なる。父の姓と母の姓を並べるからだ。その上ファーストネームが1ないし2個。それを説明するだけで長時間かかる。
 
最後はお土産の民芸品、土鍋風陶器壺の説明。これで淹れるメキシカン・コーヒー、「カフェ・デ・オッリャ」の淹れ方(壺にコーヒー粉と水を入れシナモン棒を数本立てて直火にかけ、沸騰したら火からおろし好みで砂糖を入れて飲む)説明であっと言う間の2時間終了。
 
 ミゲル一族が来るといつも近くの中華レストランで焼きそばの歓迎昼食。さすがに初挑戦のティータは箸使いに慣れず、スプーンとサジを使ったが、ロリータとセルヒオの二人はうまいものだ。

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             (焼きそばを食べる母ティータ(右)と娘ロリータ(左))

食べながらの話題はメキシコ人の食生活に。薬剤師のティータは職業柄一般メキシコ人の健康状態を懸念している。曰く「偏食のせいで10人中7~8人が糖尿病かその予備軍。だっていくら野菜や果物、肉を勧めても、主食のトルティージャ(トウモロコシ粉のクレープ)と塩味の豆ばっかり食べて、おまけに飲み物は甘いあま~いコーラ。これじゃ、糖尿病にならないわけがないわよ」
 
 その野菜。中南米原産のナスや日本人の揚げ物料理の付け合わせには欠かせないキャベツなどはほとんど顧みられない。品不足なのではない。逆にあまりにありふれているので、雑草程度にしか扱われないんだそうだ。そういうおばあちゃんも「最初ユーキが買ってきた時は驚いたけど、それでおいしいお料理を作ってくれたので、ナスやキャベツが食べられるってわかったの」
 
 聞いたこっちの方がびっくりだ。ナスは漬物、シギ焼き、とすっかり和食化までしているのに本家本元のメキシコでは雑草の実扱い! 今度焼きナスやトマトとの炒め物なんか作って食べさせよう!
 
 昼食後はクラス会長の勝島さんと私で近くの坂東33観音札所の31番目の札所「笠森観音」へ案内。普段はひっそりしている境内が、その日はどうしたんだろう(失礼)、大勢の参詣者でにぎわっている。3軒ほどの土産物店も全店オープン。どころかその向かい側にもテーブル出して占い者まで。

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             (笠森観音パンフレット。佇まいがわかるでしょ?)

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        (まず嗽所で3人に口や手をすすぐマナーを教える勝島さん)

 次いでいよいよ観音堂へ。ここは日本唯一の「四方懸造」(しほうかけつくり)といって岩上に観音堂とその回廊が建つ。戦前は国宝、今は重文。履物を脱いで木造の階段を手すりにすがって上る。開基は783年伝教大師最澄上人。上人自ら楠の霊木で十一面観音像を刻みこの岩上に安置した、と伝わる。
 
 ご本尊は秘仏で午年丑年の秋1カ月だけご開帳。何年か前のご開帳時に拝した観音様は予想外に大きく柔和なお顔でびっくり。その時以外はお前立の観音像。本堂内には2本の綱が渡されていて祈願者が願いを込めた布をそれに結びつけるとその願いは綱を通して観音様に届く、という。近頃は外国人参拝者も増えているのか、英語、中国語、韓国語のパンフレットも完備していた。
 
 堂をぐるりと囲む回廊からは眼下の新緑が濃淡鮮やか。春は桜、秋は紅葉、四季折々の風景が堪能できる。セルヒオは「日本女性の恋人が授かりますように!」と訪問者リストに。でもスペイン語ででなく日本語で書かなくちゃ、ね。
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       (脚の痛いティータは堂下で待機)

 お堂を降りて境内の反対側にある鐘楼で鐘突きを経験させる。「早鐘」(火事など非常時の合図)を避けるため、1回打ったらその後30秒待つんだよ、というと律儀に30数えてから次のを打つ。

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              (鐘を突くセルヒオ)

 駐車場からお堂までの深山幽谷を思わせる杉木立の階段道、岩上の観音堂、鐘突き… 京都・奈良の寺社を見学したことのあるセルヒオとロリータにもこの笠森寺の佇まいや経験は別格の印象だったようだ。おばあちゃんのティータにはちょっと階段がきつかったようだけど。
 
 その日最後の道程は我が家。夫、片言のスペイン語でメキシコはトルーカでの陶磁器学校設立時の苦心談、当時のメキシコ事情など語る。また「知りたがり屋」の本領を発揮して、現在のメキシコとアメリカの確執、麻薬マフィア「シナロア・カルテル」と治安など質問、3人も待ってました、とばかり強行スケジュールの疲れを見せず、時差ボケも感じさせず、話に花が咲く。が今夜はまだ田口家でアフリカ料理の夕食会が、と勝島さんに促され、一行帰る。5時半。
 
 翌日はまた勝島さんと我々夫婦が付き添って御宿・大多喜巡訪。
 
御宿ではまず日本=メキシコ=スペインの友好親善記念オベリスクのあるメキシコ公園に。この塔は周辺地域の人々と日墨の関係深い人々の好意で1928年建立され、また2009年ロドリゴ漂着400年を記念してメキシコ政府寄贈のラファエロ・ゲレロ作「抱擁」像が設置された。
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               (オベリスクをバックに「抱擁像」を囲む)

またここは去年9月ミゲルとロリータを連れてきた時、偶然横須賀の「三浦按針研究会」のグループと巡り合った場所。ロドリゴと按針(ウィリアム・アダムス)が引き合わせてくれたかのように、私と按針会との友好が始まった場所でもある。
 
 あいにく海も空も鈍色だったがこの高台からの眺望は良く、「あっち方面がメキシコ」と指さす彼方にはガレオン船ならぬ巨大タンカー。日本とメキシコは太平洋を挟んだ「一衣帯水」の隣人同士だ。ちょっとその帯が幅広だけど…

 浜辺に降りるのはティータには無理かなと思ったけど、本人が「行きた~い!というので、ロドリゴ漂着のユバンダの浜へ。引き潮で満潮時よりは広く見えたが、それでも317名の漂着者と漂流物でここは足の踏み場もなかっただろう。
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                   (左崖下は浜辺。遥か向こうはメキシコ…)

 昼食はサヤンテラス。ランチ定食はメーン料理+バイキング形式でサラダ、飲み物、スープ、デザート、その上ラーメンまで選べるのでセルヒオ大喜び。ミゲルも前回大喜びだったなぁ。
 
食後は「日本=メキシコ友好の家」。バイオリニストでメキシコ市でバイオリン学校を経営していた黒沼ユリ子さんとその姉の俊子さんが昨年930日にオープンした3階建ての、別名「バイオリンの家」。異彩を放つ紫色と赤の外装はメキシコの女流画家フリーダ・カーロ美術館に倣った色でひと目でメキシカンカラーとわかる。

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         (「バイオリンの家」のファサードで)
 
 開館日は土、日、祝祭日とて今日も大勢の来館者とアテンド側のユリ子さんご姉妹+ボランティアの人々。特に再来週624,25日(土、日)は「市」を開催するとてみなさん大わらわでその準備。

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             (みなさん、是非お出かけを!)

 ご多忙中にもかかわらずユリ子さん我々一行を案内してまず2Fの「バイオリニスト人形」のコレクションの案内。ユリ子さんの夫君、故渡部高揚氏が世界中のバイオリン奏者(奏動物も!)人形をユリ子さんのために25年かけて収集した宝物だ。
 
「見て! このちっちゃい木製の人形。よくよく見たらチリのサンチャゴ製だったのよ。チリ製なんて、知らなかったわ。大発見!」興奮気味なユリ子さん。毎日見ても新発見があるという。

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           (セルヒオにバイオリニスト人形を見せる黒沼ユリ子さん)

 3Fはミニ「コンサートホール」。メキシコの大作曲家マヌエル・ポンセの名を冠し「ポンセホール」と。今は夏休み中だが9月にはファン待望の弦楽コンサートが再開のはず。
 
 そのホールでユリ子さんが流暢なスペイン語で「御宿と私」の話。ご自分がいかにメキシコとのかかわりを持ったか、そのメキシコとここ御宿との友好の歴史、さらにその御宿からのコンサートを皮切りに生まれたご自身とのつながり。それが4年前の御宿移住となり、御宿、ひいては日本=メキシコの懸け橋役となった、と。
 
 メキシコ組3人、ユリ子さんの熱弁に改めて御宿の日墨交流の意義を噛みしめ、感激しきり。
 
 再び1F入口のカウンター前に戻り、ボランティアの人々から供されたメキシカン・コーヒーやらキウリのお漬物やらを堪能。また御宿スペイン語学習グループ「さんごの会(海の珊瑚とスペイン語3単語を掛けた掛け言葉から)」メンバーの「¿Cómo  está?」を聞いて大喜びだった。(因みに私達市原のスペイン語クラスでは「産業革命」をもじった「3行書くべぇ」を合言葉にスペイン語作文に励んでいる。)

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               (「市」の準備中の人々と)

 御宿のアミーゴスに「アディオス(さよなら)]をして一路大多喜城址に。ロドリゴ漂着の御宿村(ユバンダ村)を領地とし、ロドリゴ一行を歓待した領主本田忠朝の居城だった城。当時の大多喜城(オンダキの城)がいかに堅固にまた豪華に作られていたかは彼の「日本見聞記」に詳述されている。曰く「城は石材こそ用いていないが素晴らしく精巧な土台に築いてあった。城の内部は、金、銀など色とりどりの配色が施されていて、天井だけでなく上から下まで、常になにかしら目を楽しませてくれるものがあった…」(ロドリゴ・デ・ビベロ「日本見聞記」大垣貴史郎訳)。また忠朝が、食事や衣服、馬を供し、頻繁に書状を送るなど、いかに彼を厚遇したかも同書に記されている。
 
再建されたその城は現在歴史資料館となっていて、ミゲルもセルヒオも以前の訪問時ここでレプリカのヨロイカブトを着用、サムライ姿となって記念撮影をした、という。
 
黒瓦、白亜の壁は折からの夕陽を受けて青空に燦然と屹立し、ロドリゴを迎えた当時と同じようにもろ手を広げて400年後に来訪したメキシコ人をもてなしているようだった。

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                    (大多喜城の前で)

“¡Bienvenidos,hijos de Rodrigo, que se diviertan de la estancia en Japón para ser luegopuente de ambos países! (よくぞ参った、ロドリゴの子孫たち! 存分に日本を楽しむがよい。そして以後は両国の懸け橋となるのじゃ)




四国旅行(その1 善通寺と金比羅山)

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 生まれて初めての四国旅行。去年尾道からしまなみ海道を渡って大三島まで行ったのに、四国の土は踏まなかったから。入梅直後で降られる心配があったが、まだ終盤の豪雨にはなるまい、とタカをくくって618日朝息子と3人で出発。
 
高松空港着10時。ここの名所栗林公園は端折って、弘法大師の父、佐伯善通の名を取って建立された善通寺を目指す。ご本尊は薬師如来、四国88カ所霊場の第75番札所。「同行二人」と書かれた菅笠を被り白衣に竹杖をついた巡礼者もチラホラ。東院の金堂も西院(弘法大師お誕生院)の御影堂も江戸時代に再建された建物だが東院境内の大楠、西院境内の大松は樹齢数百年、いやもっと?、「歴史の生き証人」として創建当時を物語る。それとこの寺の山号「五岳山」にあるように5つの急峻な山々に囲まれた景観が素晴らしい。特に目の前に迫る香色山(こうじきざん)はこの寺の守護神のよう。

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                 (善通寺金堂) 

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(善通寺御影堂を参拝するお遍路さん)

次は象頭山(ぞずさん)中腹に鎮座する金刀比羅宮(金毘羅宮)。明治以前は真言宗象頭山松尾寺金光院、または神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。明治の神仏分離・廃仏毀釈令で海上交通の守り神の本宮「金刀比羅宮」と松尾寺の金堂だった旭社、奥の院の「厳魂(いずたま)神社」との3社に分離。

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              (金毘羅宮への参道)
 
本宮までの785段の石段の1段目下のうどん屋でまずは腹ごしらえ。その名も「こんぴらうどん」。実は私、麺類は少々苦手。でも「うどん」を食べずに讃岐は語れぬとて、この店自慢のアツアツ天ぷらを添えた「つけ麵」注文。麺はシコシコ腰があり量もハンパじゃないし、天ぷらは舌が火傷するほどアッツアツ。堪能。だからと言ってこれだけで麺好きに転向したわけじゃないけど…

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               (参道のいろいろな店を覗く)

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(シコシコつけ麵とアツアツ天ぷら)

いざ785段の石段に挑戦。宿から借りた竹杖にすがり、折からのカンカン照りと登段で汗びっしょり。ひっきりなしに乾く喉。ペットボトル数本で水分補給しつつ、11段慎重に、かつ休み休み上る。

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            (100段目付近。下りて来る人がうらやましい…)

365段目に大門。ここから先は神域なので特別に許された「五人百姓」の「加美代飴」の屋台と資生堂パーラー(500段目)以外は店屋1軒もなし。更に少し上がると書院、高橋由一館(「鮭」の絵で有名)、などあるが、とにかく本宮までエネルギー保存、と脇目もふらずひたすら目前にそびえ立つ階段に挑戦。

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              (やれ嬉しや、365段目の大門が見えてきた!)

628段目に旭社。1837年(天保8)建立された神仏分離以前の松尾寺の金堂。高さ18mの銅瓦葺二層入母屋造で、屋根裏には巻雲、柱間や扉に人物・鳥獣・草花が精密に描かれている。本尊十一面観音像は神仏分離の際遷座、社宝として観音堂に祀られている。あまりの荘厳さに幕末清水次郎長の代参でやって来た森の石松、本宮と間違えてこの金堂に参拝、親分から預かった刀を奉納してしまったとか。徒然草ではないが、ここでも「先達はあらまほし」である。

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               (旭社。私も石松同様間違えそうだったぞ)

いよいよ本宮。785段を登り切ったぞ。この神仏習合寺社の由来は各説あるが、いずれにせよ「海上交通の守護神」とされるのは、祭神大物主命が「海の彼方から波間を照らして出現した神」だったからとか。
 
江戸時代中期以後は伊勢神宮と並んで庶民の信仰対象となり、各地に「金毘羅講」が組織され参詣されるようになった。自分で行けない人は飼い犬の首に初穂料と旅費を括り付け代参させたという。あの「金比羅船々追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ…」の民謡もその頃生まれた。
 
本宮は本殿(1878年再建)、幣殿、拝殿、神饌殿など桧皮葺・大社関棟造。その他北渡殿、神楽殿、南渡殿などの建造物はこの景観に更に荘厳な趣を添える。絵馬殿にはさすが海上交通の守り神、古い船の絵馬と共にタンカーの写真や日本人初の太平洋横断に成功した堀江謙一氏のヨット「マーメイド号」のレプリカなどが奉納されている。宇宙飛行士の写真も。

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           (785段登り切った本宮社殿)

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(北渡殿から本殿の横側を臨む)

帰りの階段は楽勝。とはいえ踏み外さないよう慎重に下る。雨天だったら滑落の危険。中国人の観光客も多く、子供を肩車した父親や幼女の手を引いた母親がフーフー言いながら登ってくるので、思いついて紙きれに「加油!」(中国語でがんばれ!の意。残念ながら発音がわからない)と書いて差し出すと、うれしそうににっこり。途中讃岐の名酒「勇心」を買う。息子の恩師がその酒造の研究所におられるのだ。
 
下りは楽勝、とは言え785段の上下往復と早朝の出発と善通寺参拝でさすが丈夫一点張りの私でも、それ以上は動けず、今夜の宿「桜の抄」へヘタリ込む。が、一服後夕食と散策にまた町へ。やっぱり「見学魔」の異名発揮!の我々。
 
翌朝の目覚め快適。昨日の強行軍も、ありがたや、足腰、何ともない。これも金毘羅様のご利益?
 
前日行きそこねた金毘羅座。別名金丸座。ホテルから徒歩2分。
 
1835(天保6)年創建の日本最古の芝居小屋。琴平町が金毘羅様の門前町として繁栄するにつれ、当時人気の歌舞伎芝居の常小屋を、との町民の要望を受け高松藩が許可。富くじ売り場を兼ねたので大繁盛。ただ明治になって荒廃。それを惜しんだ地元の人々の保存運動の甲斐あって1970(昭和45)年「旧金毘羅大芝居」として国の重要文化財に指定された。そのあと4年かけて小屋は移築復元され、収容人数740名の堂々たる劇場に生まれ変わった。1985(昭和60)年から「四国こんぴら歌舞伎大芝居」として芝居復活、以後毎4月中村一門など歌舞伎俳優が来場・公演、今年で33回目を数える。

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             (金比羅座ファサード)

受付でチケットを買い役者の幟の立ち並ぶファサードを目のあたりにすると、もう心ウキウキ。木戸のネズミ口をくぐって入場。ガイドが花道、升席、回り舞台、かけすじ(役者の宙乗り用の装置)、セリ(奈落から舞台上に上下する装置)、すっぽん(花道上に設置された妖怪・忍者や幽霊用のセリ)、鳥屋(とや、花道から登場する役者の待機場所)、舞台後ろの楽屋、奈落にある回り舞台用の仕掛け、2階の来賓席、ブドウ棚(竹格子の天井、芝居の筋に合わせて雪片や花吹雪などを散らす)など丁寧に説明してくれる。幼い頃何度も連れて行かれた歌舞伎座や新橋演舞場の造作を思いだす。たっぷり2時間かけて見学。できたら春の公演、いつか一度は見てみたいものだ。

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            (2階客席から見た金毘羅座舞台と両花道)

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            (奈落で回り舞台用の回転柱を押す?息子)

名残惜しいが次の予定は祖谷渓・大歩危・小歩危の探索。四国文化の一大集積地を後に今度は中央部の大自然の懐に抱かれるべく、一路吉野川に向かって出発。


四国旅行(その2 祖谷渓(いやだに)・大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)

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 金毘羅座から国道32号線を南下、一路祖谷渓を目指す。井川池田で吉野川を渡る。四国三郎の名の通り広々した川幅。まだ雨量が少なく両岸や川中に大岩がごろごろ見える。それを見ながら吉野川沿いの狭くくねくねと曲る道を辿る。片側は切り立った断崖。もう片側はのしかかるような山塊。まっこと、四国は石の国じゃ。
 
 2時間かけて吉野川本流沿いの小歩危、大歩危を通過。この地名、昔は「崩壊(ほき、ほけ)」と書き、渓流に臨んだ断崖を指す言葉で、奇岩怪石の多い土地、の意だという。後年「大歩危(おおぼけ)」は大股で歩くと危険、「小歩危(こぼけ)」は小股で歩いても危険、というのでこの字が当てられるようになったそうだ。
 
それはさておき、その両歩危を脇目に左折、吉野川支流の祖谷川に出る。まずは祖谷渓のかずら橋へ。
 
 道はさらに狭く急カーブが続くが、さすが四国有数の観光地、梅雨時のウイークデーというのにかずら橋周辺は観光客が大勢歩いている。10年ほど前だったか、作家で恩師の遠山あき先生が「私、祖谷渓のかずら橋を渡ったの~」と嬉しそうにおっしゃっておられたが、あの時先生は80歳を優に越えておられた。
 
かずら橋の袂にある「いこい食堂」でアユの塩焼きと地元のこんにゃくを使った田楽を食べる。おいしい! 夫と息子は十割ソバ粉の祖谷ソバを激賞。この店の窓ごしにかずら橋を渡る人々が見える。脚がすくんだのか途中で動けない人もいて、その後ろに行列ができている。

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                  (「いこい食堂から見たかずら橋)

 いよいよ渡橋だ。「いこい食堂」のやや下流で一度コンクリートの橋を渡り、そこから一方通行のかずら橋を通ってこちら岸まで戻ってくる。私はここに来るまでは、この吊り橋は往路と復路2本あり、両方渡るのだ、と思っていたが、それは奥祖谷の二重かずら橋らしい。今回は片道のみ。(やってみれば、往復なんてとんでもない。片道だけで充分だ、ブルブル)
 
チケット売り場の注意書きに「払い戻しできません」とある。買ったものの恐ろしくなって渡橋を中止する人向けだが、この注意書きがさらに恐怖をかきたてる。我々の前後はホンコンからの若者が大勢。みんなこわごわ葛を編んだ太い手摺につかまり、いざ渡橋の第1歩を踏み出す。
 
橋は想像していたより幅が広く(2m)、中央に立つと両手で左右の手摺りを握ることなどできない。その分左右どちらかの手摺にしがみつくことになる。そうすると自分の重みで手摺が外側にしなる(ような気がする)。その上夫が何を思ったのか、渡り始めて間もなく右の手摺から左の手摺に移ったので、その体重移動で橋全体が大揺れ。危うく川に放り出されそうな恐怖。しかも足元は幅10cm位の板が30cm間隔でつながれているだけ。隙間から14m下の急流と硬そうな岩が、「おいで、おいで」、をしている。さっき食堂から見た行列を思いだす。確かに恐怖で眼もくらみ足もすくんでしまうはずだ。
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              (怖いよ~ 揺らさないで!)

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(足元の隙間から14m下を覗く)

暑さと恐怖で大汗かきつつ40mの橋を渡りきる。やれ、うれしや、無事だった! 確かな達成感。遠山先生の、やったぁ!の気持ち、今だからこそよくわかる。

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            (やれ嬉しや。無事渡橋。大地はありがたい)

近くの琵琶の滝を見てから奥祖谷の「篪庵(ちいおり)」を目指す。日本文化研究者のアメリカ人アレックス・カー氏が1973年に購入再生させた藁葺き屋根の古民家。ここから四国の奥深い山村の良さや美を世界中に発信した。夫は以前からこの家を映像で見ていて、是非行きたい、と希望。
 
先程のかずら橋周辺の道より更に更に細いヘアピンカーブの道をナビ頼りにひたすら上る。周囲は急峻な山々。それも段々天空に近くなってきた。遠くに集落らしいのが望見されるが道端には家一軒、人っ子一人見えない。やがてナビ運転の息子が「この崖下らしい」と車を停め、急な坂道を徒歩で下る。と、あったぁ。それらしい茅葺の家。でもし~んと静まり返って誰もいない。裏手にまわると2階建ての今風建物に人の気配。「頼も~うっ、頼も~うっ」と呼ばわると、青年が一人出てきた。
 
笹川聖司氏。快く家の内部を見せて下さる。広い土間、磨き込まれた板の間の部屋々々。行燈風照明に囲炉裏、広々した台所にどっしりした風格の古民具。日本古来の素朴な民家の佇まいプラスカー氏の鑑識眼、美意識で蘇った新しい古民家の姿があった。以前見たテレビではこの地方の特産品での料理や織物などのワークショップをやっていたが、現在は徳島県三好市の「篪庵トラスト」が宿泊施設として運営している。

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            (「篪庵(ちいおり)」のパンフレットから)

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           (「篪庵(ちいおり)」の室内)

因みにこの難しい漢字「篪(ち)」は笛の音という意味で、カー氏がフルートを吹くことからその音楽が聞こえる庵ということで命名された由。パンフレットを頂き、宿泊者や宿泊条件など伺って、「今度は一族で一軒丸ごと借りて泊まりたいねぇ」と言いながら、この趣ある庵を辞す。
 
途中「平家屋敷」なるものに寄ってみたが、「篪庵」とは比較にならず、早々に退出。
 
大歩危地域ど真ん中にあるその名も「まんなか」ホテル。その創業者が始めた大歩危遊覧船。レストランも兼ねたチケット売り場から遊覧船発着場まで長い階段やスロープを下る。渓谷が深く切り込んでいて吉野川はその狭間の底を流れているのだ。両岸に渡した数本のロープにぎっしりと鯉のぼりが繋がれ、爽やかな風に宙空を泳いでいる。20人乗り位の5艘の船が新緑を楽しむ観光客を乗せて次々に発着している。

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                (吉野川と鯉のぼり。遊覧船乗り場)

我が船も下流に向かって出発。両岸は白灰色の砂質片岩、礫質片岩という大岩石で固められ、澄んだ水底からも大岩が水面近くまでせり出して、そこここに深淵や早瀬や渦巻を現出している。相客はホンコンや韓国からの人々。それぞれ自国語で歓声を上げる。はるか見上げる崖上をJR土讃線が。

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                  (巨岩の林立)

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                  (ホンコン人、韓国人、日本人、みんな一船托生)

絶景を嘆賞すること30分。船はゆっくりとUターン、元の乗り場に帰る。以前乗った最上川舟下りでは乗船場と下船場がう~んと離れていたので、不便だったがここは好都合だ。しかも今夜の宿はその遊覧船創始者の開業したホテルだから川岸の遊歩道からも歩いて行かれる。
 
今夜は付近の探索はせず、ホテルの大盤振る舞いの夕食。ここもホンコンからの人々が数組。日本へのインバウンド客の数、確かに増加しているんだなぁ。
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           (鮎やら青豆腐やらここならではのご馳走が)

ロビーの囲炉裏付きの和室の一隅にカー氏の自筆が。飄々とした良い字だった。
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(カー氏の書)


四国旅行(その3 高知城・伊野・面河渓(おもごけい)

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 四国旅行3日目は高知城・伊野・面河渓。どれも当初の予定にはなかったコースだ。天候不順の季節、大雨だったら大歩危から松山高速道に戻り観音寺を見て一路瀬戸内海沿いに今治、松山に入る。降らなかったら中央山地を大豊に出て一般道をテコテコと石鎚山を遠景に、久万高原を通り大洲か内子を目指す…という2コースを考えていたが、それでも高知まで行けるとは想定外だった。

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              (四国中央部地図。瀬戸内海から太平洋まで縦断)

 ところがスマフォで検索していた息子が「ここからだと高知まで高速道で一っ跳び。折角天気もいいし、行くかい?」という。夫も地図を見ながら、伊野という町は手漉き和紙の産地らしい。行きたい!と。
 
 それなら、ここも行かれる?と私。「面河渓(おもごけい)」という秘境があると聞いていて、出来たら行きたい、と大歩危→面河渓→松山に至る色々なルートを旅に出る以前から実は密かに調べ、プリントアウトしてきた。
 
勇躍大歩危のホテル「まんなか」を9時出発。なにしろ四国を南北に縦断するのだ。
 
大豊で高知自動車道に乗り高知まで確かに一っ跳び。
 
11時にはもう高知城の追手門(大手門)。この門と天守閣、御殿などが江戸時代初期に藩主山内一豊によって創建され、火災焼失の憂き目にあっても直ちに復元され、当時のままの面影を伝えている。

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            (高知城追手門。今にも鎧武者が飛び出して来そう)

 戦国時代を彷彿させる厳めしい追手門(表門)をくぐると広々した広場。正面に坂本龍馬と並ぶ郷土の偉人、板垣退助の銅像。1882年岐阜でのテロ事件で負傷した際「板垣死すとも自由は死せじ」の有名な言葉を残したが、実際は本人は生きながらえ、逆に後年自由が抹殺されたのは歴史の皮肉かしらん。
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               (板垣退助像。ちょっと見えにくい)

 板垣の銅像を右手に見ながら代々の藩主の生活の場である御殿や天守閣を目指して幾重にも折れ曲がる石段を上る。そこここに清掃作業の人々がいてチリ1つ無い。高知の人々の愛郷精神を感じる。
 
 石段を上る度に初代藩主山内一豊やその妻で内助の功を発揮した千代女の像など目新しいモニュメント。その一方山内家以前の藩主だった長宗我部元親築城の際の石垣も復元。平成12年三の丸石垣改修工事の際発見された、という。NHKの大河ドラマでのうろ覚えの知識だが、長宗我部元親の四国平定と没落、新たな山内家の赴任、それに伴う旧長曾我部藩士(下士)と新山内藩士(上士)、の二重武士構造が幕末の坂本龍馬を生み出した、とつながり、感無量。

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           (長宗我部元親が築いたといわれる石垣)

 詰門をくぐるといよいよ本丸御殿と天守閣など高知城の核心部分に入る。本丸御殿は一時山内一豊夫妻が居住していた、と言われ、藩主の生活空間が彷彿される。嫁入り資金を夫の軍馬購入資金として差し出し、「山内一豊の妻」と言えば「良妻賢母」の代名詞となった妻、見性院。だが本名は伝わらず、あくまで夫の引き立て役、内助役。馬を引いた銅像もいいけど。
 
本丸御殿はすぐ天守閣とつながる。その天守、四重六階の、いかにも戦国期最後に藩主が立てこもる場所、というように各層堅固に出来上がっている。
 
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(高知城天守閣の遠望)

 這うように各階をよじ登る。各階に上る毎に周囲をぐるりとなだらかな山脈に囲まれた高知平野が鮮やかに眼下に広がる。最上階の欄干から四方を見下ろすと、龍馬の生家はあっち、板垣退助邸はこっち、とあるが、実際は結構距離があるようだ。受付の女性に「土佐女性を象徴する『はちきん』ってどういう意味ですか」と訊いても現在は使われず、従って意味不明と。今回おなじみの龍馬像もよさこい節の「はりまや橋」も割愛。

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             (天守閣最上階。断り書きに「昼寝を禁ず」って!)

 土佐和紙の町を目指して一路伊野へ。住宅地にある「ペーパーラボ」。ご夫婦経営の小さな和紙工房。名刺用紙や他多目的に使える紙束を購入。やはり手漉き和紙の手触り、書き心地は格別だ。ついでに和紙博物館にも寄る。ここでは和紙の工程、原材料、ワーキングショップ、書展、グッズなど幅広く展示・即売。アメリカ人カップルが楽しそうに木版印刷に挑戦していた。
 
 土佐和紙工芸村の道の駅「Qraud」(蔵人をもじった由)で遅い昼食。普通の道の駅とは「ひと味、いや1ランク上です」みたいな高級レストラン風で確かにお味も1ランク上。その上お値段は一般の道の駅並みでした。ありがたかったです。ハイ。
 
 ポツポツ降り出した小雨の中いよいよ面河渓谷をめざす。国道33号線を辿り仁淀川沿いの左右に急カーブの道。越知町、仁淀川町あたりで33号線を右に折れ県道494号、そうかと思うと12号。ややっ、12号線が別々の所に2本もあるぞ、と地理音痴の私、地図を追うのをあきらめ、息子とナビに全面委任。
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(途中一休み。こんなにちっちゃい夏みかん。おいしくていくらでも食べられる)

川の蛇行とそれに沿った幾つもの急カーブのもみじラインに入る。もう面河渓へ一直線だ。右に左に100m級の断崖があり、面河川は遥かその裾を流れているらしく、なかなか姿が見えない。そのうちY字路に出て右手に「石鎚山スカイライン」の標識と橋。そして、アレアレ? 左手の道の先は道路片側が封鎖。おまけに頼りのナビまで「ここから先は行けません」。えっ、どうして? なんで? 土砂崩れか何かあったの? 
 
 その時「石鎚山スカイライン」標識の橋の袂に1台の軽自動車。運転席に若い女性が!駆け寄って事情を訊くと面河渓の奥地までは左側の道を行ける。が、その先は未舗装の難路で道不案内者の通行は無理。もし松山まで行きたいのなら、奥地をぐるっと見てからここまで戻って「石鎚山スカイライン」を行くか(それでも相当時間がかかる)、それとも33号線に戻り久万高原町経由、砥部から行った方が安全、と教えてくれる。まさに「地獄に仏」だ。
 
 勇躍。とにかく行けるところまで行こうと出発。道は確かに狭く対向車が来てもなかなかすれ違えそうもない。そして段々標高が低くなり谷底が近くなってきた。カーブを曲がる度にチラリと流れが垣間見えるようになった。
 
 そうか、「面河」の意味がわかったぞ。深い渓谷で山腹を通る道からは流れが全然見えなかったのが、いよいよ渓流に「面してきた」、すなわち「河に面する」のだ! そうに違いない。勝手に言葉の解釈をして得意になる。

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       (面河渓の案内図。道が左右に別れる所までしか行けなかった。面河渓の
     ホンのちょっとを覗いただけだったんだぁ)

 そうしてとうとう河原(五色河原)に。正面の道は行きどまりでレストランらしい小屋(渓泉亭)。左手は面河川本流を渡る橋、五色橋。流れは渇水期らしく細いがその代わりに巨岩、巨岩。向こうの絶壁も岩、河原も、川面も川底も、全部、全部、岩。
 
 河原に降りて正面の岩に対峙する。橋の中央で記念写真。

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              (これが面河渓の断崖)

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(五色橋に立って五色河原に立つ息子を見下ろす)

 地図を見るとまだ面河渓全図の入口程度、この橋を渡れば国民宿舎やキャンプ場、そして支流の鉄砲石川の景観も見られるのだけれど、もう5時過ぎ。いくら夏至の日とはいえ、日暮れは近い。「どうだい、先を行くかい?」と息子。もういいよ、と今夜中に道後まで辿り着けるか怖じ気づく私。「気に行った。こんないい所とは思わなかった。今度じっくり来ようじゃないか!」と夫。今度じっくり、って、いつ? と喉まで出かかったが、ま、そうしよう。いつだって、どこだって、どこまでだってお供仕る。とりあえず今夜中に道後に辿り着けるなら。
 
 再び33号線に戻り、久万高原町の和菓子屋さんで「おくま饅頭」を買い、難所を脱出した気分でご主人と歓談。「面河もいいけど、久万高原もいいですよ」「じゃ、今度じっくり」。また「今度」とカラ約束? 砥部焼きの砥部は通過。
 
松山への一般道は渋滞。面河付近の人っ子一人車っ子一台通らなかったのがウソ見たい。雨脚繁くなった夕暮れの松山市内を車窓から眺めながら、ゆくりなくも大学時代の同級生の山口君を思い出した。名門松山東高校出身。大学時代はさして親しくなかったが、卒後旅行会社の中堅として活躍。世話好きで、大学同級会の幹事として、会場を提供した我が家に34回来て下さった。松山東高の同窓会の会場としても我が家を選んで下さった。3年ほど前ガン発病、病克服を誓い病後の抱負を語っておられたが、その甲斐なくあっという間に他界。彼が元気で、今回の旅の件を相談したら、お人柄でも仕事柄でも故郷の「ここぞ」と思う所を教えてくれただろう。綿密なスケジュールまで立ててくれたかもしれない。
 
松山に来て、子規よりも漱石よりも思い浮かぶのは山口君のこと。彼もまた子規と同じく「甕に差した藤の花房短かければ、畳の上に届かざりけり」と、大望を前にご自分の寿命の短さを嘆かれたに違いない。合掌しつつ松山市内中心部を右手に、道後温泉は間もなく。やれやれ「今夜中に」辿りつけた。

四国旅行(その4 道後温泉・大洲・内子)

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 夜の8時半雨中道後温泉着。ライトアップされた道後温泉本館はやはり迫力。ここはこの本館を中心に狭い範囲をぐるりとホテル・旅館・飲食店が取り巻いている松山でも特別な一画なのだろう。

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                (夜の道後温泉本館正面)

ホテルに入る前に本館向かいの「おいでん家」で名物3種類の鯛メシ賞味。面河渓・久万高原と心細い山道を辿って来ただけに安堵の気持ちもあり美味しさひとしお。
 
 今夜のホテル「花ゆずき」も本館の斜め後ろ。梅雨時のウイークデーというのに満杯(?)。11階の大浴場で3日間の旅疲れを癒し、明日の最後の旅程を楽しむべく就寝。
 
 翌朝6時過ぎホテルの浴衣とタオル入りの竹かご片手にいよいよ「道後温泉本館」へ。
 


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(朝風呂へ 最高の贅沢)


 道後温泉の歴史を紐どけば往古の昔、傷ついた白鷺が毎日ここで湯浴みしその効あって元気回復。それを見た人々が温泉の霊力を発見。それを伝え聞いた大国主命が重病に罹った息子の少彦名命(すくなびこなのみこと)を掌にのせてこの湯で温めたところ、忽ち全快し石の上で踊るほど元気になった、という。その石も「玉の石」として現存。
 
 いよいよ入浴。1階入口でチケットを買う。料金体系は4種類。「神の湯階下」(大人410円)は入浴のみのコース。一般的な町の銭湯並み。受付の後ろから男女別の浴室へ直行。2階は「霊の湯2階席」(1,250円)。2階の休憩室で浴衣、タオル貸与。「霊の湯」「神の湯」の2種類の浴室。浴後大広間でサービスの煎餅とお茶を頂きながら湯上りのほてった体を冷ますことができる。更にプラス260円で「又新殿」(ゆうしんでん、皇室専用浴室とその休息の間)を見学でき、「霊の湯3階個室」(1,550円)は大広間でなく個室を占有できる。
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                  (道後温泉本館内部)

我々は「霊の湯2階席」プラス「又新殿」見学コース。2種類の浴室に入れるわけだが実際は見学時間も含めて1時間限定だから、浴室のハシゴをする余裕はない。「神の湯」に入る。浴槽の真ん中に石柱があり、漢文で大国主命と少彦名命にまつわる温泉効能由来が書かれている。私は特に温泉マニアではないし、「又新殿」や「坊っちゃんの間」の見学もあるし、大広間のお茶とお菓子もあるし…で、そそくさと湯に浸かり、そそくさと出る。折角全国指折りの温泉に入れたのに、ゆったりと湯治気分にはなれない。

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         (2階の大広間。右手奥が男性用「神の湯」。左手の壁に山口晃の絵)

そそくさと大広間に戻りお茶とお煎餅を味わう。普通の煎茶なのに茶碗が天目台に載っているのが凄い‼ 床の間には現代売れっ子画家山口晃の「飛行機内での入浴図」。

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           (天目台に載った天目茶碗ならぬ煎茶碗)

「又新殿」を案内してもらう。明治32年設けられた皇室専用浴室というが、こんなところでまで専用浴室に入らなければならないなんて、なんと皇室の方々は窮屈だった事だろう。だから実際はお見えにはなるが、入浴される方はいらっしゃらない、とか。
 
3階の「坊っちゃんの間」。夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任時、足繁く通った部屋という。漱石の有名なこめかみに右手をあてた肖像写真を見て、夫「わかったよ。この右手は『吾輩は猫である』を表す『招き猫』の格好をしているんだよ」と一大発見を述べる。早速その写真の前で「猫じゃ猫じゃ」をやって見せるが、そうかなぁ。

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            (坊っちゃんの間。吾輩は招き猫?)

 慌ただしくホテルに戻り朝食。正岡子規記念博物館にも伊佐爾波神社にも寄らず小京都といわれる大洲への高速道をひた走る。宇和島へ抜けるこの道は両側を深い渓谷を抱く山々に囲まれている上、雨上がりで霧が深く立ち込め、前後の車両も定かに見えない。特に肱川(ひじかわ)河口の町、大洲は「肱川あらし」という濃霧で有名。河口に立つ大洲城は「天空の城」として写真マニアが全国から訪れる。
 
「明治の家並」のある歴史地区の最初はまず「おはなはん通り」。60年代一世を風靡したNHK朝ドラ「おはなはん」の撮影現場だった通りで道の片側を清冽な小川が流れ、花々が咲き乱れ、歩くにつれてどこからともなくあの有名なテーマ音楽が…。

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                (おはなはん通り

 肱川河畔の「臥龍山荘」。明治の貿易商河内寅次郎が私財を投じ大工中野虎雄と千家十職に粋を凝らして建築させた山荘。敷地内に「臥龍院」「不老庵」「知止庵」3棟の庵が建つ。主屋の「臥龍院」は「清吹(せいすい)の間」「壱是(いっし)の間」「霞月(かげつ)の間」と玄関の「迎礼(げいれい)の間」から成る。いずれの室も簡素に見えながらよく見ると贅を凝らした作り。「壱是の間」からは手入れの行き届いた庭が、また「霞月の間」は隣室の仏間に穿たれた丸窓が銀色の満月に見えるという趣向。

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                (臥龍院内4室の案内)

庭の奥、建物全体を肱川に浮かぶ船に見立てて建築された懸け造りの「不老庵」。満月の晩は月光が網代張りの天井に映えて夢のような風景を現出するそうだ。また肱川の対岸から遠望すると周囲の森に囲まれた世捨て人の庵に見える。
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                (肱川の対岸より不老庵を遠望する)

 「おはなはん通り」に戻り武家屋敷だったという「旬」で創作料理を満喫後、もう1つの小京都「内子町」を目指す。
 
ここは大洲より歴史地区のスケールが大きい。まず「内子座」。香川県琴平町の「金比羅座」と造りも外観もよく似ているが、由来はもっとずっと新しい。大正5(1916)年この町の木蝋(もくろう。ハゼの木の実から絞った植物油でそれを精製して鬢付け油や織物の艶出し、軟膏などにした)や生糸の商人などの旦那衆が芸能や芸術に寄与しようと建てた劇場。歌舞伎や文楽、またその後は映画や落語などが演じられ、地方の文化発展に貢献した。

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                   (内子座ファサード)

木造2階建て、瓦葺き入母屋造り、定員650。一時老朽化のため取り壊しが発議されたが、町民の熱意で昭和60年移築復元。今では年間5万人の観光客を呼び込む。常駐のガイド氏が熱心に説明。舞台袖には「内子座」のハッピも用意されていて、座建設当時の人々だけでなく、それを今に伝える住民の町おこしの意気込みがヒシヒシ。

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             (内子座客席より舞台を見る)

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(内子座のハッピを着て見得を切ってみましたぁ)

2階通路の壁に戦前の自転車屋の営業品目が箇条書きされていて、それも古き良き時代を感じさせて面白かった。

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          (この自転車屋さんも大旦那の一人?当時はハイカラだったんだろうなぁ)

 内子座から本町通りを直進すると右手に有形文化財、旧下芳我家住宅。その通りが32号線と交わる角を左折するとそこから町並保存センターまでの一本道が八日市・護国通り。内子座からセンターまで全長約1,2kmの歴史街並み保存地区だ。
 
内子座を作るなど明治・大正・昭和初期を通じて木蝋で財を成した本芳我・上芳我・中芳我・下芳我など芳我一族の豪邸が立ち並ぶ。これらが今は「木蝋資料館」や「商いと暮らし博物館」「町家資料館」などになり、また和菓子屋、町家カフェ、藍布屋、など「保存街並みウオーカー」をときめかせるアトラクティブポイントだ。

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                (かつての豪商の大店を覗く)

 あっちの木蝋資料を見たり、こっちの重要文化財の家屋を覗き込んだり、学校給食を思い出すようなビン入りのコーヒー牛乳を飲んだり、布工房で土産物を物色したり、「ねき歩き」(内子方言で近場をぶらぶらすること)を心行くまで堪能。
 
 息子の今治出身の上司が、「四国旅行なら絶対お奨め」と推薦された大洲・内子。お言葉に違わず今回の四国旅行の掉尾を飾った名所でした。
 
 松山空港に出発時間すれすれに戻ったのに、なんちゅうこった。東京地方豪雨で飛行機の発着軒並み遅れ、空港で夕食。でも旅行中唯一食べそこなった松山名物鯛ずしにありつけたのは不幸中の幸い。
 
 もっとも1つ位「行きそこねた‼」「食べそこねた‼」がないと、「もう1回行こう!」にならないから、1回の旅行であんまり満足してもいけないかなぁ。
 
あ、そうそう「面河渓再訪」宣言がある。これを近未来に実現しないと…と予定より2時間遅れの帰途、四国再訪を誓ったことでした。


ボストン美術館の至宝展

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 史上稀な猛暑の日、東京上野の都美術館に「ボストン美術館の至宝展」へ出かけた。
 
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周知の通り同美術館は1876年、1920世紀に世界中を巡ってその地域の貴重な美術品を収集したアメリカ人コレクターから寄贈された蔵品を一般人の教育啓蒙のため設立されたもの。日本関係ではE・S・モース、E・F・フェノロサ、W・S・ビゲローなど明治の日本美術を廃仏毀釈や維新の混乱から救った人々の収集品を収蔵している。
 
 今回は同美術館が誇る古今東西の名品80点が「集結!」と銘打ち、中でもゴッホのルーラン夫妻の肖像画2点が並んで出展、という企画。
 
 会場は1.古代エジプト美術 2.中国美術 3.日本美術 4.フランス絵画 5.アメリカ絵画 6.版画・写真 7.現代美術 と7区画に分けられ、それぞれ代表的な作品が展示されている。
 
 圧巻は1の古代エジプト美術。「高官マアケルーの偽扉」、や「供物の行列を見る墓主ネケブ」(墓のレリーフ断片)(両方とも古王国時代、石灰岩)の見事なレリーフ、「ツタンカーメン頭部」や「高官クーエンラーの書記像」「メンカウラー王頭部」などの彫刻。なんで古代の石造、石彫刻ってこんなに力強く、骨太なんだろう。

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2の中国美術。北宋第8代徽宗皇帝の「五色鸚鵡図鑑」。花鳥画に秀でた彼の鸚鵡図と自筆の痩金体による題詩がぴったり呼応して品格の高い作品。その他岡倉天心の中国・日本美術収集支援のため同美術館が支援した「中国日本特別基金」で収集された馬遠の「柳岸遠山図」夏珪の「風雨舟行図」。どちらも本当に小さい絵だが、その中に描かれた宇宙は広大無辺だ。

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(陳容 九龍図巻)

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            (曽我蕭白 風仙図屏風  上図と比べると面白い)

3の日本美術。野々村仁清の錆絵鳰形香合や鼠志野草文額皿は江戸初期の日本の焼き物の渋みに潜む華やかさを余さず伝える。喜多川歌麿の「三味線を弾く美人図」は色使いといい品格といい、やはり第1級。歌麿は北斎と並んで江戸時代を代表する双璧、と再認識。大画面の英一蝶の「涅槃図」、与謝蕪村の「柳堤流水・丘辺行楽図屏風」、曽我蕭白「風仙図屏風」それぞれ大画面の力作だけれど、私は歌麿の美人図に軍配を挙げたい。

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                                   (歌麿 三味線を弾く美人図)

4.フランス絵画。今回の目玉展示品のゴッホのルーラン夫妻肖像画。ゴッホがアルルで親友となった郵便業者のジョゼフ・ルーランとその妻オーギュスティーヌのそれぞれ一人ずつの肖像画で画風も筆致も1年違いで描かれたものとは到底思えない。ジョゼフの方は手の描き方などなんだか習作っぽい。背景も単調だ。それに引き換え妻の方は豪華な背景といい、配色といい、絵として完成の上、揺るぎなく家を守る主婦の気概さえ感じさせる。図録によるとこの妻の像に真に対になるのは1889年作のジョゼフ像でこれは背景といい、筆致といい見事にこの妻像に対比できるのだが、クレラー=ミュラー美術館所蔵である。 
 
 この室にはJ・F・ミレー作品3点。内1点はお馴染みの農民風景でなく洋梨。重厚だ。モネがやはり3点。これもお馴染みのひなげしと睡蓮とルーアン大聖堂。前衛好きの私、この大聖堂図が気に入った。
 
 P・セザンヌの「卓上の果物と水差し」、ドガの踊り子、コロー、クールベ、ピサッロ、良く知られた画家達の作品で、特に目新しい物はないが、その分穏やかな気分で鑑賞できる。

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                  (セザンヌ 卓上の果物と水差し)

5.アメリカ絵画室。一所懸命ヨーロッパ絵画に学び、追いつこうとする19世紀末~20世紀初頭のアメリカ人画家達の切ない願望がひしひしと伝わる。明治期の日本の洋画家達もこんな風に苦闘したのではなかっただろうか。その中ではジョージア・オキーフの作品が群を抜いている。草間彌生がその作品に憧れて渡米、師事した、というが、今見ても素晴らしい。

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            (ジョージア・オキーフ グレーの上のカラ・りりー)

6.版画と写真室。ここのモノクロ作品群は、「白黒で色を感じさせる」、と言うより、金属の機械や機関車、また風景にしても、月光に白く光る川と暗い森など、硬質な世界を感じさせる。
 
7.現代美術。この室に入るといきなり現代の息吹を感じる。20世紀後半から21世紀の、すなわち我々の時代が良くも悪くも息づいている。最初に目に飛び込んできたのがなんと日本の現代アートの旗手、村上隆のIf the Double Helix Wakes Up… お馴染みの「ドッブ君」が空中だか水中だかを浮遊している…
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            (村上隆  If the Double Helix Wakes Up… ) 

村上作品が透明な水色の世界だとすると、ケヒンデ・ワイリーの「ジョン、初代バイロン男爵」は1643年作ウィリアム・ドブソンの同名の肖像画のパロディだが、モデルは黒人、背景は真紅の地に花模様という、まさに現代アメリカの持つ多様性、明暗、矛盾、混迷、を表現しているのではないだろうか。
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           (ケヒンデ・ワイリー  ジョン、初代バイロン男爵)

 そして最後に夫の大好きなデイヴィッド・ホックニー作品「ギャロービー・ヒル」。青と紫、緑を基調に黄、赤が道、畑、森、とそれぞれの割合で画面を区切っている。爽やかで明るい。この紫色のカーブした道を辿ると淡く霞む未来の世界へ導かれる、そんな気がする。そういえばメキシコで仲良しだったアメリカ人のマリーナ・ジェセップの部屋にも爽やかなホックニー作品あったなぁ。どうしているかしら、マリーナ。

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        (デイヴィッド・ホックニー  ギャロービー・ヒル)


 至宝とはいえ、今回来日した作品数は80点。良い物を見れば、もっともっと見たくなるのは人情の常。たった80点は本家のショーウインドーをちょいと覗かせてもらっただけ、の感じ。
 
 やっぱりショーウインドーだけじゃなくて、店内も、いや、店先も、じっくり見てみたいなぁ、と都美術館2階の精養軒の「ボストン美術館スペシャルランチ」を食べながらしみじみ思ったことだった。

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(精養軒  ボストン美術館スペシャルランチ)



京都家族旅行(その① 天龍寺・大覚寺)

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 長女夫婦、息子夫婦と我々の3組の夫婦で残暑厳しい京都へ行ってきた。
 
 初日825日正午嵐山嵯峨野着。まずは腹ごしらえ、と天龍寺正門斜め前の「ぎゃあてい」。店の名はどっかの外国名などではなく般若心経から取った「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい はらそーぎゃーてい」で意味は、「行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、幸あれ、悟りあれ」、とのこと。さすが天龍寺の門前店。
 
ここの売りは1階の京都の「おばんざいビュッフェ」だが、込み合ってるので地下のおばんざい定食。
「ぎゃあてい」唱えたのだからって、図に乗って般若湯(ビール)まで頼む不心得者も。

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            (ぎゃあてい定食)

 般若湯で潔斎していよいよ天龍寺詣で。臨済宗天龍寺派本山で足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため夢窓疎石を招いて暦応2年(1339)に創建。その莫大な費用を捻出するために元(げん)への貿易船(天龍寺船)が運航され、その資金を源に1343年には七堂伽藍が整ったという。
 
 室町時代には京都五山の第一位だったが室町幕府衰退と共に衰退、更に度重なる戦禍や8回の火災のためほぼ全伽藍焼失。現今の建物は明治になってからの再建で敷地も往時の約1/10という。それでも3万坪!

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           (天龍寺伽藍マップ)

 カンカン照りの砂利道の参道を大勢の観光客がぞろぞろ。中国系は団体が、それも子供連れが多く、欧米系はカップルが多い。東南アジアのイスラム系の女性達、頭部を覆うスカーフはこの蒸し暑さにはきつそうだ。須弥山を象った大岩石が門番みたいに迎えてくれるひんやりした庫裡に逃げ込む。白壁、曲線の梁、木骨造りの特徴ある建物。これこれ、これが天龍寺の顔。中に別の大顔が迎えてくれる。前管長平田精耕師描く衝立の達磨の顔。

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             (天龍寺庫裡正面)

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(庫裡正面脇の須弥山を象った?巨石)

庫裡から大方丈に至る。ご本尊は釈迦如来様。天龍寺建立以前に制作された仏様で打ち続いた戦乱でも生き残った(仏さまだけに)! 今回は特別展示としてボストン美術館所蔵の曽我蕭白作「雲龍図」の原寸大のレプリカが展示されていた。原図の出所はどこか未だに不明だが、キャノンが精密な写真模作をし、「龍」の字の縁でこの寺に寄贈したのだそうだ。でもここの襖のサイズにぴったりで、まるで初めからここの襖絵だったよう。(これとは別に法堂(はっとう)の天井には加山又造作の雲龍図があるそうだ)。

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          (曽我蕭白作「雲龍」の写真レプリカ)

大方丈は部屋だけでも大きいのに庭に面した側とその側面と二カ所に広々した広縁があり、そこから見た曹源池を取り巻く庭の佇まいは、さすが夢窓疎石の作庭。大堰川からの流れを取り入れ、嵐山を借景にした雄大な景観。方丈の広縁から見ただけでも充分堪能できるが、庭に降りて池を間近に見たり、木陰を散策するのも楽しい。

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         (天龍寺 夢窓疎石作庭。大方丈から曹源池を見る)

長い回廊を渡って多宝殿の中の後醍醐天皇を祀った祠堂を拝するのも、この寺の途方もない大きさを実感。前回子供達が小中学生の頃連れて来た時は突然の豪雨に見舞われ、どっかの堂宇か塔頭の陰で雨宿りをした記憶があるが、さてそれはどの辺りだったかしら?
 
 多宝殿の横手から百花園の中ほどまで上ると眼下に嵯峨野が遠望されるし、ちょっと上っただけなのに冷ぃやりした空気がありがたい。
 
 北門から出て清々しい竹林に囲まれた小道を下り、元の門前通りに出て「楊枝屋」でカキ氷休憩。6人の集団移動は休憩所探しも一苦労だ。ここではカフェラテや抹茶ラテを頼むと泡立ったラテ表面に棟方志功ばりの女性の顔を描いてくれる。

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          (楊枝屋のカフェラテとケーキ、抹茶パフェ)

 ひと息ついて元気回復しタクシーで大覚寺へ。ここは真言宗大覚寺派の大本山。平安時代初期嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚記念に建立した離宮がこの寺の前身、離宮嵯峨院。嵯峨天皇の皇孫桓寂入道がそれを貞観18876年)大覚寺とした。

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           (大覚寺 大澤池から見た五大堂)

 正式寺号を旧嵯峨御所大覚寺門跡ということから、浅学の私は嵯峨天皇のお名前を取った寺号、と思ったら実は反対で、この地をこよなく愛した天皇がここの地名を取られてご自分のお名前にされた、という。また後に(14世紀に入って)後宇多天皇がここで院政を敷いたり、南北朝時代にはここで皇位継承が行われたり、とここは御所から遠い隠棲の地と思いきや、政治の中心でもあったのだ。
 
弘法大師が嵯峨帝に般若心経写経を勧めたのが始まりでここが写経の根本道場となり、ここから空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)という能書家三筆が生まれたのだ。
 
 門を入ると受付までの庇付きギャラリーに豪壮な生け花が数点。「いけばな嵯峨御流」発祥の寺でもある。(去年は仁和寺で仁和寺発祥の御室流の生け花を拝見した。違いは判らないけど両方とも雄渾・優雅)。
 
 宸殿は徳川2代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の中宮東福門院和子が使用していた女御御殿。天龍寺が室町将軍の建立した武家様式寺とすると、この寺は天皇・貴族様式寺院の典型。御所の紫宸殿を模した寝殿造りで階の両側に橘と梅(桜ではないが)が配され、広い白砂の庭の先には勅使門が見える。

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             (宸殿正面 この手前に勅使門)

正寝殿は宸殿の裏側でひっそりと佇むが、これこそ後宇多法皇が院政を敷いた場所だ。
各建物を結ぶ回廊は「村雨の廊下」と呼ばれ稲妻を模して直角に折れ曲がり、その床は歩く度にキュッキュッとなる鴬張りになっている。
 
 一度門外に出てぐるりと回り、望雲亭という四阿(あずまや)の脇からお庭へ。広々した大沢池の畔を歩く。放生池やら五大堂やらの側を通り、奥へ、奥へ。というのもこの奥に百人一首で有名な藤原公任(ウチでは何故かこの平安時代の大アーティストをキントウマメと愛称?で呼んでいる。)の「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなお聞こえけれ」の歌の源になった名古曾(なこそ)の滝跡があるからだ。

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  ( 大覚寺境内マップ ①宸殿 ④五大堂…この外と池の間の小道で閉め出された 
     ⑨大澤池 ⑪名古曾の滝跡  )
 
離宮嵯峨院時代の滝殿として作庭された時の滝でキントウマメがこの歌を詠んだ時にはもう枯れていたのだが、往時を懐かしんで詠んだのだろう。行ってみると頑丈な石組だけはしっかりと残っていたが、高さも幅も、これで名を残すにしてはあんまり貧弱(失礼!)じゃない? これをあたかも見上げるような滝、に見立てた古代の人々の想像力に脱帽。滝に水は無かったが滝つぼ周辺はぬかっていて、まだ幾ばくか地中に水分はあるらしい。

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            (名古曾の滝跡とその碑)

 古代の感慨に浸ってから、出口へ戻ろうとしたら、なんと出られない! 出入口の竹垣に外からしっかりと閂。頑丈な南京錠までかかっている。確か受付で「お庭は5時の閉門時間を過ぎても大丈夫歩けますよ」と言われて安心してたのに。我々以外はスペインはマドリードから来たという女性2人だけ。8人でおーい、おーい、と本寺に向かって叫ぶ。そっちももう閉門消灯されているので真っ暗だ。たまりかねて長女が竹垣を乗り越えSOSに走ったがこれも戻ってこない。これじゃ、芭蕉を気取るつもりもないのに「名月や池を廻りて夜もすがら」になっちまう。
 
 右往左往するうちに事務室辺で気が付いたのか女性が駆けつけ開けてくれた。広い庭内の奥の方で滝跡を鑑賞している我々を確認せず、錠を下ろしてしまったらしい。ふ~っ。
 
 天龍寺の山門隣の宿へ帰る。一休みして夕食を取りがてら周辺散策。昼間観光客でごった返していた門前通りが嘘みたいにひっそり。みんなどこへ行っちゃったんだろ? 宿の真ん前のうなぎ屋も8時で入店終了、「ぎゃあてい」も昼間だけ営業。小座布団屋も名物コロッケ屋もシャッター。
 
やっとJR駅前食堂「さがのや」に。観光客は誰もいず、子供を含む地元の人達だけ。その人達が観光客の我々をむしろ物珍し気にチラチラ見ている。でもこういう店が、アタリ! なんだよなぁ。アツアツの鱧(ハモ)の天ぷら、同じくクリームコロッケ、海鮮サラダ、etc.etc. しかもお値段もリーゾナブルで、お酒も大分飲んだのに、6人で1万4千円弱! 
 
 宿の大浴場で今日1日の汗を流せば、満足、満腹の京都旅行初日でした。

京都旅行(その② 祇園界隈街歩き)

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 京都家族旅行2日目は夫の先導で祇園界隈の街歩き。

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                              (主として四条通りより北側の祇園界隈マップ)

 地下鉄東西線三条京阪駅下車。縄手通りを南下すぐ左折、古門前通り。この通りは知恩院への参道だが今回知恩院へは行かず、そこへ至る古美術店街のウインドウを覗いて歩く。どの店のどの品も「みんな違って、みんないい」(金子みすゞ風)。
 
 我々の目当ては思文閣ギャラリー。京都でも指折りの出版社の直営ギャラリーで、銀座にも支店があり、近頃夫は度々足を運んでは展示品に感心して帰る。今回はその本社の画廊、何か素晴らしい美術品が展示してあるに違いない。
 
 そして、期待に違わず! 足を踏み込んだ途端、途方もない逸品に全身総毛立つ。左側の大ウインドウ一杯に展開された一対の大屏風。洛中洛外図屏風。それも国宝の上杉本(狩野永徳筆)や舟木本(又兵衛筆)に構図といい、色彩といい、勝るとも劣らない。
 
 アテンドして下さった北野氏によるとこれは「本田本」と言って元は個人蔵だったのを同社が数年前取得、やや色が剝落していること、作者が不明なこと、などが上記二作に比べ評価が低い、と見なされていると。でも後年次々現れた「洛中洛外図」に比べ街並みや祇園祭の様子が詳細に描かれていること、年代が大体特定できること、等々で、大変貴重な屏風という。(氏は最初慶長3年1598年頃の京都と説明したが、後で寛永3年1626年頃と訂正)。徳川秀忠が家光を連れて上洛、後水尾天皇を二条城に招待した時を描いたものという。

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               (又兵衛筆「洛中洛外図」右隻)

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       (同左隻 2013年の「洛中洛外図展」より。私のブログに掲載済み)

 これと右側ウインドウに展示された横山大観作の「富士山」共々9月の売立会に掛けられる由。恐る恐る最低売り出し価格を伺うと、こともなげに「1億円」と。この価格、高い? 安い? 国宝級となれば、「安い!」と夫。でも普通じゃ到底買えないよ。どっか公の美術館、買って展示してくれないかなぁ。因みに大観作品はそれ以上の値段だって!?
 
 北野氏が多分呆れるほどこの古画に見とれて、漸く同画廊を出る。良かったなぁ。これだけで京都に来た甲斐があった。
 
 古門前通りから1ブロック南下。新門前通りの小さな布店。「染司よしおか」と。源氏物語に登場する織物などを再現した高名な染織史家、吉岡幸雄氏の店。植物素材だけで染め上げた色とりどりのスカーフ、和装小物などがこじんまりした店内に所狭しと並んでいる。「甕覗き(かめのぞき)」という段階で染めた藍色ってどんな色ですか?って訊くと、しとやかな店員さんが、例えばこれです、と示してくれたスカーフ。想像していたより藍色が濃い。甕に残る少量の藍染料で染めるのが「甕覗き」と思っていたので、もっと白色に近い色かと思っていた。長女が自家用にベンガラ色や緑色のコースター購入。
 
 そういえば「京都の色」はベンガラ色。京町家の拭きこまれたベンガラ格子の色だ。落ち着いて渋く、しかも華やか。気をつけて見て行くと、私鉄車両や駅、色んな所にこの色が使ってある。お茶屋の代表格「一力亭」の外壁もこの色だ。(内部もこの色が基調らしいけど、入ったことがないのでわからない)。
 
 今回の参加メンバーは、夫や息子夫婦のように「京都大好き、よく来る」という組と長女夫婦のように「前回はいつ来たかなぁ」という「滅多に来ない」組の混合編成。だから後者に配慮して新門前通りを西に川端通りを突っ切り鴨川が見下ろせる土手で記念撮影。
 
新門前通りが縄手通りと交差する場所に黒コショウ、黒七味などの珍味店「原了郭」。優雅な店構えでサンショウ大好きな夫に刺激され、それぞれの家族が思い思いの珍味を買う。

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(一味、黒七味、粉山椒」どう違うかな?)

 次に新橋通り周辺のお茶屋街をぶらぶら。数年前速水御舟の「舞妓図」のモデルになった舞妓の所属したお茶屋の外観を偵察?に行ったことがあるが、今ではその店名も舞妓の名も忘れてしまった。中国人のカップルが、ある組は浴衣姿、ある組はこの猛暑にも関わらず打掛と羽織袴で柳の下で記念撮影をしている。ここも外国人の人気スポットだ。

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               (カメラマンを従えたカップル)

 祇園といえばテレビで必ずこの風景が出てくる白川の畔。吉井勇の「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」の歌碑の脇を更に南下。四条通りに出る。
 
 ここは大混雑。通りを横切ると角に一力亭。何人もの交通整理員が汗だくで整理にあたっているが、後からあとから浴衣姿(貸衣装)、リュック姿の観光客が押し寄せる。みんなベンガラ色の同亭を背景に写真撮影するので余計混雑する。
 
その一力亭の裏の、知らなければ見過ごしてしまいそうな「御飯処山ふく」。「おばんざい」コースを120食限定で出す。狭い通路を挟んで両側が畳席。奥に小さなカウンター席。元気のよい名物おばちゃんに迎えられ、昔ながらの丸ちゃぶ台に小皿に盛ったナスの煮つけ、冷ややっこ、かやくご飯、お漬物etc.etc。息子と娘の夫は、おばちゃんに「にいちゃん達、お代わりしな」とご飯のお代わりを強制される。

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         (山ふくのおばんざい。次から次へとお皿が…)

そのちゃぶ台にはナニゲに益子焼の浜田庄司作の箸立て、その上方の壁には棟方志功の扇面画、入口近くには河井寛次郎の筆太の書。タダのおばんざい屋と思いきや、やっぱりこの店、タダ者じゃない。これだから京都は怖い。
 
観光客でごった返す名所八坂神社。東京で言えば浅草、仲見世。夏休み最後の土曜日とてまさに押すな押すなの人込み。西楼門から本殿までの参道もまるでお祭りのお縁日。緩やかな階段の両側に占い卓あり、キャンディ屋台、京土産店が目白押し。

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                (八坂神社。ここはまだ空間があった方)

 さすが初心者組も長居はご免、とそそくさ神社を後にする。四条通りを西へ。旧弥栄中学校跡地に建った漢字ミュージアムで今回留守番の小中学生への有難迷惑土産?にと長女夫婦「漢字ドリル」物色。私達は同館内の「祇園祭ぎゃらりぃ」で実物大の櫓を見物。去年の祇園祭時に来た時はあちこちの山鉾を見て歩いたっけ。
 
 何必館(かひつかん)を右に南座を左に見ながら鴨川を渡り、木屋町通りで右折。川底の小石も手に取るように見える高瀬川沿いを北上。この川沿い道にはここを開墾した角倉了以はじめ大商人の蔵屋敷が立ち並び、大量の商品が舟で運搬されていた。深さはせいぜい1015cm。こんな浅瀬でよく舟が通れたもの。
 
 三条通りの角から2,3軒めのビル6Fに宇治茶の直営店「京はやしや」。冷房効いた店内で濃茶を。こんなにどろっとしているのか、と初めての経験に娘の夫、びっくり。息子の妻は玉露を、娘は煎茶セットを。店員が丁寧に茶の淹れ方、味わい方を教えてくれる。

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          (どろりとした濃茶)
 
「はやしや」の向かいは豆菓子の「舩はしや」。ここも豆大好きの夫、先頭に立ってそら豆や金平糖を買い込む。(豆好きだけでなく、買い物大好き人。私はいつもそれにブレーキをかける憎まれババ)。

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           (舩はしやの豆板。上の折紙の箱には金平糖が)

 三条通りを西に進み室町通りを南下。六角通りを更に西に。二条殿町と交差する直前にあるのが紫雲山頂法寺(通称六角堂)。観音霊場でもあるので、白衣のお遍路さんも大勢参拝している。

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                (六角堂入口。お遍路さんのグループ)

ここはまた生け花「池坊」派発祥の寺だ。聖徳太子が用明天皇2年(587)、四天王寺建立の材木を求めこの地を訪れた際、池で身を清めると念持仏の如意輪観音のお告げがあり、その像を祀ったのが創建の由来。太子の死後この池の畔に坊舎を建て、香華を捧げたのが太子によって隋に派遣された小野妹子。花をいつも手向けている池の畔の坊、というところから、日本最古の華道の流派が生まれた。
 
 六角堂の後ろに池坊会館。丁度「夏の男花展2017~俺の生き様!!」開催中で、男性華道家の作品展示中だった。生きた小鳥を白樺林に見立てたガラスケースに閉じ込め自然景観を演出、などという大仕掛けもあって、新しい生け花の世界を流派全体で探求中という姿勢。因みに次期家元は流派初の女性家元、専好さん。
 
 歴史好きで日本のカトリック伝来史に興味を持つ長女の希望で橋弁慶町から蛸薬師通りを西に旧南蛮寺と元本能寺の跡地へ。周知の通り織田信長が明智光秀に暗殺された元本能寺は現在地よりずっと南西、むしろ六角堂に近い。

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       (六角堂、南蛮寺跡、元本能寺跡付近マップ)

この通りはかなり狭い上マンション建設工事中で、トラックやクレーンの隙間を縫って西進するのだが、新町通りを横切って蛸薬師通りに入っても南蛮寺跡地の碑が見つからない。地図上ではとっくに通り過ぎたのに、と引き返したら、なんとそのマンション工事現場の隅に。小型トラックが案内板ギリギリに駐車していて、碑はよくぞぶつからなかった、という位片身狭く鎮座。もっとも南蛮寺は時の政府の政策次第で破壊・再建を繰り返し、その都度建設地も移動したからここだけでなく、あちこちに跡地がある。

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    (南蛮寺碑。江戸時代のキリシタンの労苦を今に伝えるかのように片身狭く)

南蛮寺跡地が突き止められれば元本能寺跡は容易だ。旧南蛮寺から新町通り、西洞院通りを過ぎ小川通りとの角、これも三角に区切られた狭苦しい一画。仕方がない。聖徳太子の頃から1500年の歴史を持つ都、炎上したり破壊されたりした場所まで後生大事に残しておいたら、新しい建築ができない。

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            (元本能寺碑)

最近見たテレビで、本能寺の変で自害した信長の首を、イエズス会から献上され信長に側近として取りたてられたアフリカ人、弥助、が密かに南蛮寺に運び、埋葬した、という番組があったが、距離的に見ればそんな話があってもおかしくはない。
 
さて錦小路通りを東進。今日最後の目的地は京の台所、錦市場。高倉通りから新京極寺町通りまで四条通りに平行した長いアーケード街。ここは相変わらず大変な混雑だ。もう夕方でクローズする店もあるが、外国人、観光客で狭い通路はごった返している。

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     (やれやれこの辺は少し空いてる、と思ったらツレにはぐれた!)

あっちの店を覗き、こっちの店で試食し、ハモ寿司やおばんざいを少量ずつ買い、最後に生ガキのカウンターで一休み、今日1日の街歩きの無事を祝って、かんぱ~い!
 
買い込んだおばんざいをそれぞれ両手にぶら下げて阪急嵐山線、嵐山駅下車。ホームの照明が実に優雅。

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          (銀河鉄道中の1駅みたいな夜の阪急嵐山駅)

渡月橋を渡ると川中に明るい光が揺らいでいる。鵜飼船だ。古都の鵜飼、夢幻の世界。

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          (渡月橋上から見た鵜飼船の松明)

宿に帰って一風呂浴びて、さっき買い込んだおばんざいを持ち寄り、またまた「かんぱ~いっ!」
今日の歩数、実に22,380歩。炎天下よく歩いたなぁ。



京都家族旅行その③ (鞍馬寺・貴船神社周辺) 

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 京都家族旅行3日目は長女夫婦が大阪方面に別行動で、息子夫婦と我々夫婦、鞍馬・貴船へ。
 
国際会館前からバスでまず貴船口まで。途中妙満寺門前を通る。顕本法華宗本山というので、「ウチのお寺の本店だぞ」と夫。案内書に「比叡山を背景にした雪の枯山水庭園が見もの」と。今日は、ごめんなさい、素通り。
 
貴船口からバス乗り換えで鞍馬下車。バス停前の土産店が「岸本柳蔵商店」とて早速同姓の誼みで夫「木の芽煮」を買う。関東では我が家の姓はあんまりお目にかからないが、関西では多いようで京都、奈良、四国でも個人の表札や寺社の灯篭寄進者名でしばしば目にした。息子の妻も同姓に敬意を表して(?)餅菓子を買う。
 
バス停すぐ前の階段を上がった所が鞍馬寺仁王門。ここまで上っただけでフーフーなので、由岐神社など山道登山は敬遠、ケーブルで多宝塔まで。ここからだって弥勒堂までの新参道は結構長い。そこから本殿までさらに山道と上り階段。休憩所でひと息ついた後は一気に本殿金堂へ。

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                     (鞍馬寺仁王門)

本殿前でなんだか異様な気配。ちょっと他の神社や寺院と空気が違う。なんでだろ? と寺史をひもどき主祭神、ご本尊仏を探る。なになに、開基は唐招提寺の鑑真和上の高弟鑑禎上人が宝亀元年(770)毘沙門天を安置、その後延暦15年(796)造東寺長官、藤原伊勢人が千手観世音像を祀り、さらに神代以前からの古神道や陰陽道、修験道等の山岳宗教の要素も加わった。その由来から毘沙門天王千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体を本尊とし、それを寺では「尊天」と称する。(昭和22年、初代管長信樂香雲は、このような多様な信仰の歴史を統一して鞍馬弘教を創立した)。

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              (鞍馬寺本殿とその前のパワースポット)
 
で、この異様な気配はご本尊の1つ「護法魔王尊」という、他では聞き慣れない仏?、神?、天狗?の存在の故、と思ったが、さらに金堂前の広場に新しいパワースポットとして「六芒星」というダビデの星みたいな、モザイク敷石。そこに主として若者達が一人一人立っては天に向かって合掌したり、瞑想したり。息子の妻も早速やって見たが、「パワーを感じましたぁ」と。
 
さらにこの寺で変わっているのは狛犬ならぬ狛虎。神社や寺の境内にある狛犬あるいは獅子がここでは虎なのだ。

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           (狛犬ならぬ狛虎)
一方、この寺は文芸の寺としても有名で、源氏物語の「若紫」で源氏が若紫を見初めた寺のモデルに比肩されているし、枕草子では「長い物」の代名詞になっている。でも我々には源義経が奥州に下る前に大天狗、烏天狗に鍛えられた寺や山としての方が、子供の頃からの記憶で馴染み深い。
 
鬱蒼と茂った鞍馬山の奥から今にも大天狗がのしかかりそう、烏天狗が木々の梢からこっちを窺いそう。そして遮那王(しゃなおう)と呼ばれた少年義経の雄たけびも聞こえそう。
 
本殿から1kmほど山道を歩くと奥の院魔王殿を経て貴船に出られる、と言うが(以前息子が通った)この暑さ、「木の根道」といわれる木の根っこが地上にうねうね這っている道、辿るのは足弱な我々老人、更に時刻は昼食時、という理由で再びケーブルで仁王門に戻る。仁王門階段途中の精進料理店「雍州路」へ。昔越前若狭から都へ荷駄を運んだこの道を「雍州路」と呼んだのが店名の由来とか。
 
店内は中央に囲炉裏、天狗の面、手回し式電話、などレトロな装飾品で一杯。
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          (「雍州路」店内風景)

鞍馬のお山で採りました、といった山菜料理が朱塗りの器に幾皿も。麦ごはんにとろろ芋、冷や奴、木の芽佃煮、蕨の白和え、山菜ごはん…

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 (「雍州路」の山菜料理)
 
岸本柳蔵商店の奥に京福電鉄鞍馬線鞍馬駅。駐車場に大きな天狗の面。駅構内には鞍馬の火祭り時に使われる松明の模型が展示してある。子供用でも巨大。これが1022日の祭には150本も赤々と燃え盛って練り歩くというから当日はどれほど勇壮な光景が繰り広げられることだろう。

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          (鞍馬駅前駐車場の大天狗面)

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(鞍馬駅構内の鞍馬の火祭り時用子供の松明)

可愛らしい京福電車で貴船口へ戻る。ここから夏の京都人の避暑地、と言われる貴船神社周辺へ。
 
貴船神社に至る道は片側が貴船川、片側が急な崖の間に狭くうねうねと続く上り道。しかも崖にしがみつくように料理店が並び、道幅を更に狭くしている。そこをバス、乗用車、オートバイ、歩行者が延々と列をなし、場所によっては車列が全く動かず、我々歩行者はその間を右往左往。春の桜、秋の紅葉、夏の避暑、の期間だけなのだろうが、それにしても、京都が世界有数の観光地として今後ますます観光客が増える、とあれば、早晩車規制しなければならないだろう。
 
貴船神社は全国に約450社ある貴船神社の総本社で、地域名の貴船「きぶね」とは違い、水の神様であることから濁らず「きふね」と読む。水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、古くから祈雨の神として信仰されてきた。
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        (貴船神社本殿前。鈴を鳴らすため大勢の列)

本宮の脇の崖から一筋の滝が落ちていて、それがご神体である。ここもパワースポットと言われ、若者が大勢、神前の大鈴を鳴らすべく行列している。鈴を鳴らさないと神様は降臨してくれないのかな?
我々はその列の隣でお辞儀をしただけ。御利益が違う?

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          (ご神体の滝水を頂く)

庭の一隅に貴船石を綺麗に配置した小庭。案内板によると著名な作庭家重森三玲氏が昭和40(1965)完成。庭全体が船の形になっていて、中央の椿の樹がマスト(帆柱)で、神が御降臨になる樹、神籬(ひもろぎ)を象徴しているとか。
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          (重森三玲氏の作庭。貴船石による船形とマストに比肩される椿)

神社前を流れる貴船川には沢山の桟敷が設えられていて、大勢の客が清流と川床料理を満喫している。(残念ながら道からは写真撮影できず。)涼しそう、おいしそうだが、その料理を運ぶ人々は汗だく。川辺から階段を上り、混雑する道を横切り、向かいの店から重い盆を運ぶのだ。
 
見ていただけで?疲れた、との夫を残し、息子夫婦と私、中宮と奥宮へ向かって更に坂を上る。
 
中宮は結社ともいわれ、御祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)。この方は妹の此花開耶姫(このはなさくやひめ)と共に父の大山祇命(おおやまつみのみこと)に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻として嫁すよう命じられたが、瓊瓊杵尊が此花開耶姫だけを欲したので、自分はこの地にとどまり、恋人達の縁結びの神となる、と決心したという。だから結社(結びの社)。

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                 (貴船神社中宮=結社)

この宮の境内には巨石「天の磐船(あまのいわぶね)」があり、また恋愛成就祈願のため参詣した和泉式部の歌碑もある。
 
ここを拝してさらに坂道を上り奥宮へ。ここまでくるとさすがに車の渋滞は少なくなる。
 
奥宮は素朴、簡素。境内には船形石と呼ばれる巨石が蔦に覆われて鎮座している。伝説によれば、約1,600年前初代神武天皇の皇母・玉依姫命が大阪湾に出現、水の源を求めて黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流、現在の奥宮の地に至り、水神を祀り「黄船の宮」と称した。その黄色い船(黄船、それが後に貴船の語源)はその後人目に触れぬよう石で包まれたという。

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          (貴船神社奥宮。この左方に石で包まれた船)

かように貴船神社と「船」との関わりは深い。神様の乗り物として神聖視され、「貴船」を象徴するように、神が宿るすべての境内に「貴い船」が配されているのが特徴である。
 
ハハァ。これで海辺でなく京都の山中に船の字を持つ地、神社があることの疑念解消。海や川を航海する船ではなく、天と地を結ぶ船なのだ。
 
貴船の地名、由来に納得して今日の散策はこれにて終了。貴船口から国際会館→京都駅に戻る。
 
3日間に亘り、よくも歩いた。今日も2万歩以上。明日もがんばるぞ!


京都家族旅行④ 伏見神社・思文閣ギャラリー・醍醐寺

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 京都家族旅行もあっという間に最終日。
 
 午前中は2手に分かれる。子供達は伏見神社へ。我々夫婦はもう1度古門前通りの思文閣ギャラリーへ、初日に見た本田本「洛中洛外図」屏風を拝見に。
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       (思文閣ギャラリー入口。奥に横山大観作大屏風が)
 
 2度目の訪問で先日アテンドして下さった北野氏、今回は本田本「洛中洛外図」屏風の掲載された本2冊を見せて下さる。帰宅して調べてみたら、世界で現存している「洛中洛外図」屏風は170点弱。(まだこれからも発見される可能性あり)。室町時代から江戸末期まで300年間描き続けられてきたという。でもその間のハイライトは主として秀吉の聚楽第への正親町(おうぎまち)天皇御幸か家康・秀忠の二条城への後水尾天皇御幸に大体限定されるそうだ。300年間でも絵柄になるハイライトのイベントはこの2つだけだった?今回思文閣で展示されている本田本は時代順に第52番目。
 
あんなに根掘り葉掘り質問した癖にこちらは名前だけで(名乗るも、おこがましいので)自分達の素性も申し上げず。北野さん、失礼しました。
 
一方の伏見神社組。同神社は京都観光№1の名所で、大勢の観光客で大賑わいだった由。林立する鳥居をくぐってかなり上まで上ったが、途中でへこたれて下山したそうだ。

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            (大賑わいの伏見神社。林立する鳥居群)

伏見神社組と醍醐寺入口で合流。醍醐寺は伏見神社に比べると閑散。それに寺域が途方もなく広く、上と下のエリアに分かれる。

上醍醐エリアは遠く平安時代の貞観16874)年聖宝尊師により開創、以後醍醐・朱雀・村上天皇やその皇后達の尊崇を集め、薬師堂(国宝)、開山堂(重文)、如意輪堂(重文)、清瀧宮(せいりゅうぐう)拝殿(国宝)など、国宝、重要文化財に指定されている数々の堂宇が創建された。ただこの時代落雷や失火による火災の難に遭って、清瀧宮本殿など多くの堂宇は焼失。

下醍醐地区はそれだけで他の大寺院の境内にも匹敵する広さだ。「伽藍エリア」「三宝院エリア」「霊宝館エリア」の3つのエリアに分けられる。

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              (下醍醐マップ)

境内入口の総門をくぐると正面に桜馬場の広い通り。その左手が三宝院エリア。受付を通るより前にその桜馬場に面した黒漆塗りの巨大な唐門に目が奪われる。永久3(1115)年第14世座主承覚が創建したが、秀吉の「醍醐の花見」を契機として整備された、というのでその秀吉の紋所七五の桐と皇室の菊の紋とがそれぞれ2つずつ、それも桐が真ん中、菊が両側に巨大な金箔で描かれている。

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           (三宝院 唐門)

秀吉の主催した「醍醐の花見」はこの三宝院を中心に慶長3(1598)年旧暦3月15日、1,300人の、正室おね、側室茶々など主として女性ばかりが招かれた、秀吉最晩年の茶会。この門一つを見ても、秀吉の権勢、得意顔が彷彿と目の前に浮かぶが、彼自身はその半年後、「露の命」を終わっている。
 
特にその庭園は秀吉自ら設計したもので、表書院に面し、広大な池が見渡せる。池の向こう岸に据え置かれた短冊状の石を夫が指さし、「あれだ、あれが藤戸石だ」と嬉しそうに叫ぶ。長年見たい、と念願してきた曰く因縁のある石だ。ナニナニ、そのいわれとは?

源平合戦の最中、源氏の佐々木盛綱が地元の漁師から浅瀬の場所を聞き出し、平家討伐1番乗りを果したが、秘密の漏洩を恐れた盛綱はその場で漁師を殺害。後にその亡霊が現れ、恨み言を言う、と言うのがお能の「藤戸石」の主題。だが、話はなぜかそれて盛綱の英雄譚となり、漁師殺害現場にあった藤戸石は「武士の鑑(かがみ)」として各武将の垂涎の的となった。そして戦国武将の間を転々とし、ある時は細川家が、ある時は信長が所有。最後に秀吉がいったんは聚楽第庭園に据えたが、最終的に「醍醐の花見」のためこの庭に設置した、という。

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         (池の向こう正面、短冊状の石が藤戸石)

 夫の説明に案内の女性まで「知らなかった、勉強になりました」と。
 
この大書院には長谷川等伯1門の襖絵が描かれているが、残念ながら色彩が剥落し説明がなければ見落としてしまう。



 そうそう、ここは1,000本もの枝垂れ桜でも有名で秀吉が植えさせたものも20本現存している由。しかも塀際、大玄関からも見える場所に大枝を広げているのは奥村土牛が描いた「醍醐の桜」で更に有名。
 
 三宝院を出て向かいの「雨月茶屋」で精進料理。醐山料理という京の野菜を使った贅沢な料理を、これまた贅沢な設えの部屋で満喫。家光の乳母の春日局が「美味しい!」と称賛したという酢飯の生湯葉巻(なまゆばまき)の「すもし」も味わえた。

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                 (雨月茶屋 醐山料理)

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         (雨月茶屋 春日局も賞賛したという「すもし」)

 ところで不思議なのは「醍醐味」という言葉。「醍醐」とは仏教用語から来た「最高の物」で、この寺名の由来になった、と思われるのだが、それを語源とした「醍醐味」は「最高の美味」を表す言葉なのに雨月茶屋でも三宝院の売店でもこの名を冠したお土産品が、無い! 「醍醐水」という上醍醐の名水から採集したペットボトル入りの水はあるのに…
 
 ウェブによると「醍醐」とは、五味の一つで牛乳を精製した中で最も美味しい味とされ、濃厚な味わいとほのかな甘味を持った液汁とある。すでにその製法は失われており、バター、カルピス、またはヨーグルトに近く、または蘇(乳製品)を熟成させたもの等、乳飲料・乳製品のことと考えられている、と。「醍醐味ヨーグルト」「醍醐味チーズ」「醍醐味バター」、誰か売り出さないかな。
 
 伽藍エリアへ。西大門(仁王門)をくぐり松林に囲まれた参道を行くと左手に国宝の金堂。周りに他の建物が無いだけにひときわ屋根がのびやかに翼を広げている。元は醍醐天皇の勅令により延長4(956)年に創建され、釈迦堂と呼ばれていたが、二度焼失し、現在の金堂は、紀州湯浅の満願寺本堂を秀吉の発願、その死後の慶長4年(1599)に秀頼が移し再建したもの。醍醐寺の中心的なお堂であり、建物とともに移された薬師三尊像が醍醐寺全体の本尊となっている。内部の伽藍も内陣外陣の境界もなく、ごてごてした装飾もないのですっきりしている。
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                      (醍醐寺 金堂)

 その金堂と道を挟んだ向かいの広場に堂々と屹立するのがやはり国宝の五重塔。醍醐天皇の菩提を弔うため朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5(951)年完成した京都府で最古の木造建築だとか。法隆寺の五重塔と違って裳階(もこし)が無いので、これまたすっきりしたお姿だ。

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                  (醍醐寺 五重塔)

 このエリアには他にも清瀧宮本殿(重文、上醍醐の焼失した清瀧宮本殿の一部を勧請して創建)・同拝殿、観音堂(西国33霊場第11番札所)、池を前にした弁天堂など堂宇が立ち並び、往時の繁栄振りを偲ばせてくれる。

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                 (下醍醐  弁天池と弁天堂)

 このエリア最上部は女人堂。昔はここから上の上醍醐境内は女人禁制だったので、女性達はここから上醍醐の堂宇を拝んだのだと。
 
 最後のエリアは霊宝館エリア。なにせ古い歴史を持ち、約200万坪もの広い境内に何百もの堂宇を所有していた大寺のこと、積み重なった仏像、絵画、工芸品などの寺宝は莫大なもの。その数10万点、うち国宝69,419点、重要文化財6,522点。今回時間もなかったので、この霊宝館内に安置されている上醍醐薬師堂の薬師三尊像(国宝)や同じく上醍醐五代堂の五代明王像など拝観しただけで、後ろ髪を引かれながら、この見飽きない醍醐寺を後にした。
 
 それにしても、京都。初訪問者にもリピーターにも引力万有の京都。行けば行くほど更に探訪したくなる京都、世界中の人を惹きつける都、と聞くと、へそ曲がりの私、そんなミーハー族とは違うぞ、と反発したくなるのだが、落語の「饅頭怖い」ではないが、「京都怖い、京都怖い、」と布団をかぶりつつ、布団の裾からそっと京都を眺めるのだ。

「今度は宇治が、怖い、宇治が、」などと。
 おあとがよろしいようで。


「御宿 伊勢えび祭り」に出かけた

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 まず初めに9月に2度大地震に襲われたメキシコに心からお見舞い申し上げます。一日も早い復興をお祈りいたします。
¡Sincera  condolencia por los daños  extraordinarios  causados por  los 
dos  terremotos recientes que azotaron México!  Esperamos que se
recuperen tan pronto como sea posible.
 
 毎年御宿は9月10月は大賑わいだ。名物の伊勢えび漁が解禁になり、(伊勢えび、という名から三重県特産みたいに見えるけど、実は千葉県の、それも外房が日本一の水揚げ量を誇っている。Webによると千葉県沖は親潮と黒潮がぶつかりあって、プランクトンが豊富、しかも外房沿岸は岩礁地帯が多いので、伊勢えびの生育に最適なんだとか。しかも千葉県は全国に先駆けて8月から解禁)、また、9月30日は408年前スペイン系メキシコ貴族ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーシアがフィリピンから乗船した船が御宿に漂着した日。317人の乗船者を身を挺して救助し、その後2カ月も滞在させた御宿はそれ故日本=メキシコ友好親善の発祥地として、現在も様々な活動をしている。
 
 その記念日と伊勢えび解禁月が重なって、まさに盆と正月が一緒に来たよう。来たよ~っ!
 
 で、私達もここ3年ほどは毎年御宿に出かけ伊勢えび料理に舌つづみを打つのだけれど、今年はさらにイベントの内容にも誘われ、心躍らせて10月1日出かけた。

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          (伊勢えび祭りのパンフレット)
 
 2つの記念に因むイベントは御宿のあちこちで開催されているが、メイン会場は海辺に立つ「月の砂漠記念館」の野外ステージ。9月30日と101日この広場では朝9;00から午後2:00位まで、伊勢えびのつかみどり・直売・バーベキュー、等々様々な催しが行われた。
 
 またこの広場に面した階段状ステージでは午後から日墨西(日本・メキシコ・スペイン)友好親善イベントとして、3国友好の絆を深める催しが盛大に行われた。
 
特に今年はロドリゴの生誕地で一昨年御宿と姉妹都市提携を結んだメキシコのテカマチャルコ市から市長一行5人がこの機に来日したので、彼らを迎えて一段と盛り上がった催しとなった。
 
 石田町長の挨拶に続いてテカマチャルコ市長、イネス・サトゥルニーノ・ロペス・ポンセ氏(長いけどこれが氏のフルネーム)の挨拶があり、その後、日本側は和太鼓、メキシコ側はマリアッチ演奏、スペイン側は学生バンドの演奏があった。
 
 そのメキシコを代表するマリアッチ演奏には私達の友人で、「マリアッチ・サムライ」のリーダー、恵比寿のメキシカン・レストラン「エル・リンコン・デ・サム」のオーナー、サム・モレーノ一行が出演するとて、取るものもとりあえず、駆けつけたわけだ。
 
 10月に入ったというのにぎらぎら輝く太陽の下、御宿はまるでメキシコの海岸都市みたい。大勢の観客は広場に設えられたテーブルで伊勢えびのバーベキューを食べながらの贅沢なランチショー。
 
 和太鼓は老若男女20人位?取り混ぜた「すめらぎ」バンド。揃いの濃紺のハッピ、豆絞りのハチマキが青空に映えて勇壮な漁師町の雰囲気横溢。全町民の拍手喝采で予定より30分も延長。

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                   (「すめらぎ」の和太鼓演奏)

 いよいよサム率いる「マリアッチ・サムライ」登場。サムのギター、アントニオ・ナカノのギタロン、シューゾ-・タケダのトランペット、ビオレタ・スズキのヴァイオリン、それにルミ・ハセガワとオマール・リーオスのダンス。4人のサムライが朗々と演奏を始めるとサム夫人のルミとメキシコ人で在日9年のオマールが華やかなメキシコ民族衣装で踊り出し、観客を魅了。
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           (「マリアッチ・サムライ」と踊るルミとオマール)

 それだけでも圧倒的なスペクタクルなのに、サムが来賓席に陣取るテカマチャルコのロペス・ポンセ市長を舞台上に呼び出すと、市長、待ってました! とばかり、大喜びで「エル・レイ」(el Rey、俺は王だぞ)を、堂々とした身振り、朗々たる声で歌いだす。
 
        Con dinero y sin dinero        金があろうとなかろうと
   Hago siempre lo que quiero      俺はいつでも好き勝手
    Y mi palabra es la ley         俺の言葉が法律さ
   No tengo trono ni reina…      俺には玉座も王妃も無いけど…
 
 後で聞いたらこの市長、カラオケ大好き、一晩中でもマイクを離さないと
いう芸達者、だそうな。
(ごめん、聞きほれて、折角のチャンスなのに写真撮影忘れた!)
 
 それに「サムライ」達の絶妙な合いの手と演奏。満場大拍手大喝采。まさ
にメキシコのマリアッチ広場の再現。
 その後は会場全員を巻き込んでのシエリトリンドなどお馴染みラテンナンバー揃えての大団円。
 
 さすがエンターテイメントの王様、サム・モレーノと「サムライ」達。会
場をメキシコカラー一色に染め上げての30分でした。
 
 イベントのトリはスペイン人トリオによる「ラ・トゥナ」バンド。この
「ラ・トゥナ」(la Tuna)はスペイン各地の由緒ある大学の男子大学生が
音楽バンドを組んで、その地のお祭りやイベントの際、伝統的な衣装を身に
まとって繰り出す700年もの歴史をもつバンドだそうだ。

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 今回はどうやら現役学生ではなく、日本在住のスペイン人らしい3人組。
達者でユーモアあふれる日本語を駆使して歌と演奏(バンドゥリーア、アコ
―ディオン、ギター)で盛り上げるが、残念ながら日本ではフラメンコ以外
スペイン学生歌やセレナーデはあんまりお馴染みでないようで、またサム
達が会場を大いに盛り上げた後だったため、観客の反応はもひとつ地味だっ
た。
 
ここで使われたスペインの伝統楽器、バンドゥリーア(bandurría)、機会
があったらゆっくり聞いてみたいものだ。
 
 イベント終了後、「月の砂漠記念館」ギャラリーへ。ここでは914日~11
21日まで高橋剋之「マヤ文明とメヒコ」展を開催していて、
マヤの絵文書風の作品と織物が展示されている。

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             (高橋剋之「マヤ文明とメヒコ」展ポスター)

高橋画伯はマヤ文明の暦や絵文書に魅せられメキシコに渡り、同国の世界
的画家ルフィーノ・タマヨに師事、以後マヤ文明を生涯のテーマとして制
作に邁進しておられる。画伯夫妻も私達と旧知の間柄。

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         (展覧会場で踊るルミとオマール)
 
来客の中にメキシコ風衣装の女性。近所に在住の人形作家で一昨年御宿代
表団の1員としてテカマチャルコを訪問、作品をロドリゴゆかりの教会に
寄贈してきた、とのこと。

 
 帰途いつものように駅前の「ヴァイオリンの家」に立ち寄る。在メキシコ
40年の世界的ヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんの拠点だ。
 折しも夏休みを終えて再開した3階ポンセホールでのコンサートに、さっき凄い喉を聞かせたテカマチャルコ市長訪問中。
 メキシコ人ならここを訪れないわけがない。
 
 メキシコと伊勢えび。御宿の、他地方には及びもつかない2大特産のオン
パレード。あっちで「メキシコ」、こっちで、「伊勢えび」。

 秋たけなわのこの時節、一見何の関連もなさそうな「メキシコ」と「伊勢
えび」が唯一結びつく町、それが房州の御宿。

 また来ようっと!


ギャラリー鶴舞窯「第二回森章展」始まる

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 みなさま、お待たせしました~! いつもより半月遅れましたが、ギャラリー鶴舞窯恒例の秋展、「第二回森章展」~生命はぐくむ鶴舞の巨樹〔日天さま〕~ を明日1021日(土)から開催致します。

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「第1回森章展~画家に霊感を与える鶴舞の巨樹「日天さま」~」は2014年春開催しましたが、その時の展示作品はウチの隣地に鎮座する樹齢三百年余の巨樹スダジイ、通称「日天さま」(樹下にある碑には正徳五年(1715年)と書いてありますから、新井白石の「正徳の治」の時代にはもうこの木はかなり大きかったんじゃないか、と推測されます)を1年間毎日写生した成果を発表したものでした。
 
 あの時の森画伯の精魂込めた作品群はお陰様で皆様から好評をいただき、第2回を待ち望むファンも多く、それに応えて、画伯も、これらに磨きをかけ3年後には再度世に問う、と宣言されました。
 
ところが昨秋、これまで健康そのものだった画伯を病魔が襲い、一時は前途を悲観もされましたが、日進月歩の治療医学の成果とご本人の節制で病巣の進行が足踏み、それと共に前回の個展後も手を入れ続けた「日天さま」を描いた作品群が、ご本人の予想以上の進展、変化を遂げて、まさに「木霊」そのもの、巨樹のスピリットそのもののような作品に変容していったのです。
 
ご本人によれば、それこそ、「日天さま」が生命のエネルギーを与えてくれた、としか思えず、そしてそのエネルギーは、それを描く者ばかりでなく、観る者にも生命を与え、はぐくむ力まで与えてくれるのを感じたのだそうです。
 
一昨日22点の作品が搬入されたのですが、今回もテーマは「日天さま」なのに、これが前回と同じ「日天さま」?と目を疑うような変貌、展開を見せた作品群で、1点1点目が釘付け、しばらくは目が離せませんでした。
 
塗り重ねた分厚い油絵の具の表面をグラインダーで削り取り堆朱作品のような効果を出したり、地色に金銀彩色を忍ばせたり、墨絵のように白黒を際立たせたり、そうかと思うと長谷川等伯の「松林図屏風」のように朧な霧の中に浮かび上がる樹木の優艶な姿を透視させたり、など随所に新工夫が見られます。

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           (光に当たるといぶし銀のような輝きが)

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(霧の中に朧ろに浮かび上がる枝)

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(まるでエッチングのような効果)

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(雪解け水を流れる若葉?)

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(樹芯に誰か…)

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(界・誕生)

どの作品を見ても森先生の凄まじい気迫を感じるものばかりなのですが、先生の生来の気質は「優しさ」、「繊細さ」。それが巨木の根元に、まるで巨木に見守られるように、抱かれるように、育まれるように、そっと芽生えた小さな若木、として出現しています。どうぞくれぐれもお見逃しなさいませんよう。
 
10月も中ばを過ぎ普段なら秋たけなわ、好天に恵まれ絶好のお出かけ日和のはずなのですが、このところ雨続き、真冬のような寒さが続いています。でもそんな時だからこそ、逆にじっくり絵と向き合うのも、向き合って、人生とは? 生命とは? 自然からエネルギーをもらうとは? 生命をつなぐとは何か? どういうことか? を考える、それこそ絶好の機会だと思うのですが…
 
 温かい飲み物を用意してお待ちしておりま~す。


ラテンアメリカ映画を2本続けて観た!

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 普段テレビの映画もあまり見ない私、町のDVDショップで借りることも、まして映画館に足を運ぶことなど滅多にない。
 
 それが10月、11月と続けて2本ラテンアメリカ映画を観に映画館に出かけた。
 
 1本目は「Ernesto 邦題エルネスト」。キューバを主舞台とした日本映画だ。キューバと言えば革命、革命と言えばカストロかチェ・ゲバラ。それも人気、その劇的な生涯のインパクトでチェに勝る者はない。

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 彼を主人公にした映画は連作「チェ」や「モーターサイクル・ダイアリーズ」などいくつかあるが、今回は彼が主人公ではなく、彼に触発され、彼がキューバ革命成功後、ボリビアに第2の革命を起こすべく赴いた時、彼に同行し、やはり政府軍の凶弾に倒れた日系ボリビア青年の半生を描いたもの。だからサブタイトルは「もう一人のゲバラ」
 
 実在の人物でキューバ、サンタ・クララのゲバラ霊廟にもその顔のレリーフと本名が刻まれているが、映画はプロローグとして1959年チェ・ゲバラが広島を訪れ原爆の惨禍を目の当たりにしながら、その惨禍の張本人たるアメリカに対し何故怒らないか、という、ゲバラの活動の原点となった言葉から始まる。
 
場面は変わって1962年日系ボリビア青年、フレディ・マエムラ・ウルタード、がボリビアからキューバの医科大学に留学、研鑽を積む場面から始まる。

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          (ハバナの町を歩くフレディ《オダギリジョー》)

 在学中フレディは祖国ボリビアで軍事クーデターが発生、貧しい労働者階級がさらに貧困と圧政に苦しんでいる情報に接する。そして尊敬するチェ・ゲバラがそのボリビアで革命を起こすべく同国潜入準備中というのを知り、自分も学業を擲ってその決死隊に同行することを決意。
 

 チェに「僕はあなたのようになりたいのです Quisiera ser comoUd.」と言い、チェのファーストネーム、エルネストから、ゲリラ戦士名「医師エルネスト Ernesto Médico」の名を与えられる。


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            (本物のチェ・ゲバラそっくりのバレロ・アコスタ)

 ボリビアに潜入した一行は苦難の逃避行を続け、ついに山中で政府軍に銃撃戦の末殲滅される。
 
 この映画は日本人の阪本順治脚本・監督、主人公のフレディにはオダギリジョーが、チェそっくりのキューバ人俳優ホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ、フィデル・カストロに同じくキューバ俳優ロベルト・エスピノーサ・セバスコ、フレディが密かに思いを寄せるボリビアからの女子留学生にジゼル・ロミンチャルなど日本とキューバの合作映画だ。

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            (「エルネスト」中の名場面)

 日本が舞台の場面は冒頭のチェが革命後間もなく広島を訪問した場面と終盤再び平和なった広島の場面のみで、あとは全面キューバとボリビア。
 
 当然ながら日本の場面を除いては全編スペイン語でのナレーションとセリフ。しかも同じスペイン語ながらキューバ訛りあり、アルゼンチン訛りやボリビア方言あり、で主演のオダギリジョー、よくもこの長ゼリフ、よどみなく自然体で言えたなぁ、と感服、感激の反面、半世紀以上スペイン語に首を突っ込んできたのにいまだにその入口でたゆたっている我が身のいたらなさに忸怩たる思い…
 
 それにしても、こんな日系ボリビア人青年が実在したなんて、知らなかった、知らなかったかぁ。スペイン語の不勉強に加え、ラテンアメリカ事情の疎さにも、頭をガン!とやられた感じ。参りましたぁ。
 
ここ最近、キューバに行きたい、と思っていたが、この映画でキューバの風景や住民をさらに見近に感じ、来年こそは、と思うようになった。その時にはサンタ・クララのゲバラ霊廟にあるこのフレディのレリーフに対面したいものだ。キューバでホテルを経営するヨーコさん、日程やコースの立案、是非お願いしますよ。
 
 そして昨日見たチリ映画「Neruda 邦題 大いなる愛の逃亡者」で、さらにショック!

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 チリの詩人で1971年のノーベル文学賞受賞者、パブロ・ネルーダPablo Nerudaと彼をつけ狙う警官ペルショノーの1年に及ぶサスペンス追走劇。
 
 ここでも浅学の私、ネルーダがチリを代表する大詩人であることしか知らなかったが、この映画によって、彼が詩人であることと同時に筋金入りの共産主義者、上院議員、アジェンデ社会主義政権時代の駐仏大使を勤めるなどの政治家・官僚であり、その一方、女・酒・乱痴気騒ぎ大好きな、いわば卑俗な巷の庶民、という、多面的な人格をもつ大人物であることを知った。
 
 しかも、これらの多面的人格を一つにまとめあげたのが、彼の詩であり、発する言葉なのだ。
 
詩人であり政治家、酒池肉林に溺れる生活、そうかと思うとアルゼンチンの貴族出身で画家の妻に献身的な愛を注がれる、貧民階級やLGBTの人々に優しいまなざしを注ぐ、それら複雑な人格から生まれたのが、彼の詩なのだ。
 
 映画はそのネルーダの生涯すべてを追うのではなく、(そんな破天荒な人物の一生を描くなんて、無理!)、第2次世界大戦終了直後の米ソの冷戦時、突如ビレラ大統領が共産主義を非合法化、上院議員で共産党員で逃亡、地下潜伏を余儀なくされるネルーダと、その彼をビレラから直接逮捕するよう命ぜられた警官ペルショノーとの息詰まる1年間の緊迫した追走劇を描いている。
 
 ネルーダを付け狙い、ネルーダの自由奔放な生き方(潜伏中なのに、どんちゃん騒ぎのパーティに出席するなど)を目の当たりにしてゆくうちに、ペルショノーは自分がいつの間にか彼に親近感を覚え、もしかしたら自分はマルチな人格を持つネルーダの1人格なのではないか、と思うようになる。

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              (ネルーダとペルショノー)

 終幕、アンデス山脈最南端地帯の雪山を馬で越えアルゼンチンに亡命を計るネルーダを、やはり馬で追うペルショノーはネルーダに共感するマプチェ族の男に殺害され、引き返して来たネルーダに墓地まで運ばれる。ここでもネルーダは敵を、底辺の人間の最後を見届けるタッパの広い人間なのだ。

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               (「ネルーダ」中の名場面)

翻って日本では12世紀末源平入り乱れての戦闘中も自邸に引きこもり、紅旗征戎吾が事に非ず」(戦争は所詮野蛮なこと、芸術を職業とする自分には関係ない)と断じた藤原定家に代表されるように、古来から多くの芸術家は、政界や経済界の動きを傍観、自らその渦中に巻き込まれるのを敬遠する傾向があるように思える。あるいは文人と政治家兼務でも、芸術活動は芸術活動、政治は政治、と分けて、自分の政治信条をそのまま格調高い文章や演説・朗読で発表する人は少ないのではないかしらん? 
 
 しかし、ヨーロッパや中南米人で政治家、大公使兼務の詩人・文学者は多い。彼らは自分の政治信条を詩や朗読で格調高く謳い上げる。政治の腐敗を糾弾する。それゆえこのネルーダのように共産主義弾圧の嵐の中で逃亡を余儀なくされたり、スペイン市民戦争時のガルシア・ロルカのように銃殺されたり… (この傾向は遠くローマの文人政治家シーザーやキケロにまで遡る?) 
 
 でも彼らの作品は彼等の政治活動無しでは生まれなかったのだ! ネルーダの畢生の名作でノーベル文学賞受賞の理由となった「大いなる歌 Canto General」もこの潜伏・亡命経験から生まれた。
 
 映画に戻る。ネルーダ役はチリの人気コメディアン、ルイス・ニェッコ、写真で見るネルーダそっくりだ。それを追うペルショノー警官役はメキシコのイケメン俳優ガエル・ガルシア・ベルナル、ネルーダの妻で画家のデリア役はアルゼンチン人気女優メルセデス・モラーン。そして監督はチリのパブロ・ラライン。各種映画祭で受賞している世界的に著名な監督だ。それに亡命先のフランスやスペインの風物。チリ、メキシコ、アルゼンチン、フランス、スペインの合作映画。それぞれのファン必見だ。

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          (ネルーダの妻役のモラーンとパブロ・ラライン監督)

 こんなにも中南米では著名な二人を主人公にした、あるいは主人公の行動を動機付けた、しかも中南米の風物や人情をこんなにも美しく謳い上げ、映像化したドラマが、日本ではマイナーなのか、それぞれ1週間とか6日間とかの短時日、しかも限られた映画館でしか上映されないのは、いかにも残念!


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