昨日2月19日(木)市原市南総公民館視聴覚室で岸本静江(かく言う私です)講演会、題して「ドン・ロドリゴと家康」第1回を行いました。
まだ松葉杖にすがっての、我ながら情ない姿での講演でしたが(でも昨年12月25日の志津公民館講演での車イス姿より少しはマシ?)、お陰様で1時間半の長丁場なのに、40名もの受講者が熱心にメモを取るなど、拙い話を聞いて下さって感激でした。
第1回はロドリゴと大航海時代の世界、そしてロドリゴと日本、フィリピン(スペインの植民地だった)におけるロドリゴと家康の文通について話しました。
1492年のコロンブスのカリブ地域発見に始まるスペインの中南米植民開発、メキシコにおけるロドリゴの父母のスペイン上流貴族としての地位、ロドリゴの本国スペイン宮廷出仕とその滞在中に体験した1584年の日本からの天正少年使節のスペインでの厚遇、それによるロドリゴの日本(ジパング)への好奇心、1588年のスペインとイギリスの大海戦(無敵艦隊の戦い)に海軍士官だったロドリゴのオランダ・イギリスへの敵意、その後メキシコに帰国したロドリゴのタスコ銀山市長としての経験(1600年頃)、そして1608~1609年のフィリピン臨時総督としての赴任とその期間の家康との文通、フィリピンや東南アジアを取り巻く世界中の国々の抗争を話し、ロドリゴの生涯が当時の世界史の動きのシンボルのようだった、という風に説明しました。
そして、家康との文通を続けるうちに、スペインが国是として進めるカトリックの日本国内宣教、家康のメキシコからの銀製錬技師派遣要請、ガレオン船操船技術伝授要請、「ワコウ」との共同殲滅提案などを知るうちに、スペイン帝国の高級官吏として、自分こそ家康と政治折衝を進める適任者ではないか、と思うようになったのではないか、と。
最後に幾つかの例証を挙げて私の見解を述べて第1回の締めくくりにしました。
すなわち通説ではロドリゴは帰任の際のマニラ→メキシコ航路を辿るうち一連の台風で船は難破、御宿の岩和田海岸に漂着したということになっていますが、様々な証拠から類推すると、実は自分から日本への渡海を目論んだのではないか、ということ。ただスペイン本国政府の、またメキシコ副王の高級官僚として、帰路軽々に寄り道はできません。
そこでイチかバチかの大冒険を試みたのではないか、というのが私の推論です。
その証左は以下の5項目。
- マニラからメキシコまでの航路を無事に航海するためにはマニラを5月中、遅くとも6月始めには出航しなければならない。だのにロドリゴ乗船のサン・フランシスコ号は7月25日にマニラを後にしている。
- マニラからメキシコに直行すれば不要となる家康の朱印状を携行していた。
- 同様にメキシコ直行では不必要なはずの日本人通訳を同行させていた。
- 中国産絹織物など当時日本で人気のあった東洋の産物を40トンも積み込ませていた。
- 家康との文通の成果として日本に漂着しても厚遇される、という自信を持っていた。以上の思惑を持って首尾よく1609年日本の御宿に漂着したロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーシア、次回はいよいよ家康との直接交渉に及びまする~ぅ、お楽しみに。というわけで次回は3月5日(木)。そして最終回の3月19日の第3回はバス研修旅行。ロドリゴの漂着した御宿と御宿を領した大多喜のロドリゴの足跡を訪ねる旅。30名の参加希望者の方々と、春の房総を旅するのが今から楽しみです。それまでにスタスタ歩けるようにしなくちゃ。