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Channel: コーヒーを挽きながら~岸本静江のひとり言~
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鶴舞の偉人伝(1)春日井梅鶯・大観堂雲涯

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 私の住む鶴舞の町、幕末から明治にかけて創立された、という町史は新しいのに結構偉人・著名人が輩出。内何人かはもう我がブログで紹介したけれど、それまで自分の不明ゆえその存在すら知らなかった人々や名のみ有名でも細かい経歴がわからなかった人々も多かった。それが昨今少しずつ解明してきたので、順次我が座右の鶴舞関係人名簿を増やしてみたい。
 
 今回は春日井梅鶯(かすがい・ばいおう)。ここでわざわざカナを振るまでもなく往年の代表作「赤城の子守唄」の名調子を思い出される浪曲ファンも多いかもしれない。

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 彼の資料展がこのほど故郷鶴舞の郵便局ロビーで開催されたので、最終日3月27日駆けつけた。生前の名調子を吹き込んだレコードの数々、舞台写真、愛用の舞台袴、背広、自筆の掛け軸、各種新聞記事の切り抜きなど浪曲ファンのみならず鶴舞史家にとって貴重な資料ばかり。
 
 私も実は以前この梅鶯に関して資料を探してみたことがある。が、あまり発見できずそのままにしていたのだが、今回彼の実娘で二代目梅鶯を名乗る加寿子さんと市内中央図書館初代司書で鶴舞在住の大岩裕幸氏の尽力でこれだけの資料展示が実現したのだそうだ。
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 梅鶯は本名安藤金作。明治381905)年鶴舞近郊の内田村出生、鶴舞育ち。14歳で旅回り専門の浪曲師春日井梅吉に入門、上京。一度鶴舞で芸を披露した後再上京。春日井梅鶯の名で高座に上がるようになった。数年後当時一世を風靡した東海林太郎(しょうじ・たろう)の歌謡曲「赤城の子守唄」を秩父重剛が浪曲に脚色。それを詠った梅鶯は独特の節回しと美声でファンを魅了、一躍スターダムに上り詰めた。
 
 折からラジオが浪曲放送を始めると二代目広澤虎造の「清水次郎長伝」と共にこの「赤城の子守唄」は大ブレーク。どこの高座も超満員。続いて出した「天野屋利兵衛」「南部坂雪の別れ」「残菊物語」などヒットを重ね、矢継ぎ早やのレコーディングや本人の映画出演(情炎峡、昭和27年封切り)にも繋がった。
 
 絶頂を極めた45歳の時鶴舞に帰郷、一人娘の加寿子さんに二代目梅鶯の名跡を譲り、引退。その後は日本浪曲協会の第3代会長を務めるなど公の役職にも就いたがやがてそれも後輩に譲り、69歳で逝去するまで現在の県立鶴舞桜が丘高校付近の趣ある住まいで隠居生活を楽しんだという。
 
 今回の資料展で初めて梅鶯の詳しい経歴を知った。写真で顔も覚えた(なかなかハンサム)。You Tubeで生前の声も聴いた。これならさだめし女性ファンも多かっただろう。
 

 残念ながら現在浪曲ブームは忘れ去られているけれど、鶴舞人はここに瀟洒な梅鶯旧宅がある限り、二代目さんがそこにおられる限り、往年の郷土の大スターを忘れることはないだろう。そう言えば私の次女が小学生だった頃授業参観に行くと、担任の先生が「鶴舞の先輩の春日井梅鶯の有名な『赤城の子守唄』のセリフを言ってみよう」、と生徒一人ひとりに例の国定忠治の名セリフ「赤城の山も今夜限り生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、国を捨て、可愛い子分のてめえ達とも別れ別れになる門出だぁ」を言わせたっけ。

 
 さて次は大観堂雲涯(たいかんどう・うんがい)。この人については全く知らなかった。3月29日付け朝日新聞千葉版に「睦沢の大観堂雲涯・業績伝える展覧会~明治の医師、俳諧師匠も絵も」という見出しで睦沢町立歴史民俗資料館で124日~329日その資料が展示されている、との記事があった。それによるとこの医師、出身が鶴舞という。それっと駆けつける。これも最終日だ。
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 本名尾手(もしくは尾出)嘉一。慶応3(1867)年7月市原郡鶴舞村元町2-874藤平民蔵の長男として出生。医学の道に志し、東京医学専門学校(現在どこの学校を指すか不明)を卒業、明治28(1895)年医術開業免状を取得。瑞沢村大上地区(現在の睦沢町)の尾手家に入り、済心医院を開業した。
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  地域医療に邁進したらしく白馬に乗っての往診は有名だったらしい。明治28年夷隅郡役所発行の「自用乗馬鑑札」が残っている。
 
 医業の傍ら文化人としての一面もあり、少年時代から絵を学び「雲涯」と称して富士山や花鳥風月を好んで描いた。近郷の庄屋などに頼まれれば大扁額や襖絵も描いたという。会場には堂々たる鐘馗図や虎図、孔雀図。
 
 また俳諧師匠としても近隣の俳諧仲間のリーダーとして「志久連(しぐれ)会」を主宰。同会創立記念句額や大観堂立机披露句集などに代表作が掲載されている。瑞沢川の畔にある彼の墓碑には「いつか来てうちてみよかし竹の露」(竹のようにまっすぐに生きた自分の業績が露のようにきらりと光っていつの日か後世の人に理解されよう、の意か)が刻まれている。
 
 鶴舞出身の医師といえば「明治の性典を作った謎の男」(赤川学、2014年出版)という本でその謎のような存在を解き明かされた千葉繁がいるが、それは是非次の機会に。





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